花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

スタートラインに立てば勝者、か?

都議会議員トライアスロン選手の白戸太朗氏は、自著『仕事ができる人はなぜトライアスロンに挑むのか!?』の中で次のように言う。

 

「(トライアスロン)大会のスタートラインに立てた時点で、その人は勝者なのです。(中略)ここからはご褒美です。地道な努力をクリアしてきた者だけが立てる舞台で、レースの醍醐味を味わって下さい。」

 

100m走であれば、誰でも簡単にできる。トライアスロンはそう簡単ではない。それどころか「未経験者が畏怖する」のがトライアスロンという競技だ。それに「挑戦することを決意し、覚悟を決めてトレーニングに取り組ん」で「幾多の努力を重ねて、あなたはスタートラインに立った」から「それだけで十分にやった価値があったはず」という意見だ。確かにそのような考え方もあると思う。「スタートラインに立てば勝者」という、何というか、「強い響き」もあって、一部ではかなり有名なフレーズとなった。

 

200km以上走る超長距離走ウルトラマラソントライアスロンと同様に「未経験が畏怖する」スポーツと言える。しかしウルトラマラソンの「真のゴールはフィニッシュすることにあるのでなく、」「やろうと思って取り組んでいるその過程にある」と言い切られると、そうかな?と首を捻らざるを得ない。時と場合と人によるのではないかと。

トライアスロンウルトラマラソンも、スタートして制限時間内にゴールする競技だ。「未経験者が畏怖する」理由の多くはそのゴールする困難さにある。勝負は、第一に時間内にゴール(完走)すること。次に過去の自分に勝つこと(自己ベスト更新)、そして最後にレース順位で上位に入ること、である。

 

力及ばず完走できないこともあり、それはそれで意味の無いことではない。しかし競技者としてレースに出る以上、完走することが「勝利」の最低条件という気がする。大学入学を果たしたとしても卒業できなければ「学士」として認められず、自他共に「大学に行った」とは言えない。同様に完走しなければ、「ウルトラマラソン走った」と言えない。スタートラインに立つまでの努力は認めるが、「それだけで十分」と言い切るためには、幾つもの但し書きがいるのではないだろうか。他人に対してはもちろん、他ならぬ自分に対して。

 

来週(2021/4/30)始まる「川の道」フットレースは東京から新潟の500kmを走る本州横断レース。2004年からこれまで15回開催されて、320人余りが完走した。完走者には「永久ゼッケン」が与えられ、僕は319番。レース開始以来319番目に日本海に到達したランナーということになる。このゼッケンを付けて走る最初のレースで、完走と自己ベスト更新を目指したい。