花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

僕の「青い空は」… 2022 広島・長崎リレーマラソンを走って

  青い空は青いままで

  子どもらに伝えたい

 

  燃える八月の朝

  影まで燃え尽きた

 

  父の母の 兄弟たちの

  命の重みを 肩に背負って 胸に抱いて

 

8月が来るたびに思い出す「青い空は(小森香子作詞、大西進作曲)」。綺麗なメロディで始まる歌声に耳を澄ますと「燃える8月の朝、影まで燃え尽きた…」と続く歌詞に衝撃を受けた。原爆投下された爆心地近くの地表温度は3,000℃〜4,000℃に達したとされる。家族旅行で広島に行き、平和資料館で「人影の石」を見てその言葉を一層深く心に刻んだ。18歳の夏だった。

 

広島‐長崎リレーマラソン(ピースラン)は2019年、渋谷一秀さん(シブシブ)が史上二人目の単独走を達成した時のFacebookで知った。8月の炎天下に423km走ること自体かなり過酷な挑戦だが、広島・長崎における黙祷の間に平和への祈りを重ねて昼夜分かたず走ることで、そこに暮らす人々、山や海の景色、空気感を全身で感じることができる気がした。シブシブの走りに、これまでに感じたことのない感動を覚えた。走ることで人に伝わる何かがある。「ラン」の可能性を感じたのだった。

 

今年のピースランには、「マンサンダル」というソール厚6mmの手作りサンダルで走る仲間たちと参加した。単独走に挑む竹内剛博さん(竹ちゃん)をサポートするチームを結成すると聞いて、手を挙げた。10名のメンバーが決まったのは6月末だが、走る順番や区間割が決まったのは本番1週間前だった。お互いにメッセージ交換だけで、打合せもなく、ほとんどのメンバーは当日「初めまして」だった。逆に言えば全て代表の坪倉さんにお任せだったので、準備を手伝えずに申し訳ないことをした。僕の準備といえば、前日の説明会から9日までフル出場する時間確保と地図読み、そして何より元気な身体だった。

 

8月6日、朝食に喫茶「コロナ」の女主人からいただいた茹で卵を食べた。彼女自身はお父様が満鉄勤務でチチハルに住んでいたため被曝は免れたが、着のみ着のままで満州から引き揚げてきた。101歳のお母様が女学生の頃、皆既日食時に太陽の周りに見える「コロナ」という美しい光を知って、銀山町(かなやまちょう)に開店した店の名前にしたという。ピースラン走ると言ったら、これ食べて頑張ってねと、卵を2個手渡してくれた。
原爆ドーム南側の噴水付近に集合。シブシブ、竹ちゃん、をはじめ、ウルトラマラソンの大会でよく合う面々と挨拶を交わすと、少し緊張が解れる。皆で平和を祈って走ろうって思う。

午前8時15分に黙祷。77年前、ここで、影まで燃え尽きた…。犠牲になった方々を追悼し、二度と戦争はしない、と誓う。

午前9時、「ヒナギク」の第一走者マイコさん(広島出身)は裸足でスタート。原爆から逃げた人たちには裸足だった人たちも多くいたはず。思いを込めて走って二番手、同じく広島出身のミホさんへ襷を繋ぐ。僕は三番手として彼女を待っていると緊急事態発生。踵を負傷して歩いているという。落ち合う場所を予定より手前に変更して急行する。サポート車に乗っていた三上さんがミホさんを見つけ、そこから代わって走ってきた。襷を受けて、ひたすら坂を上ると道が途絶えて右側に鉄パイプの階段がある。苦の坂峠に続く道だ。グーグルマップに出てない竹林に囲まれた「道なき道」を700mほど走って県道1号に出る。サポート車が先回りしてくれて5km毎くらいに給水してもらうが、時刻は14時、とにかく暑い。広島・山口の県境に架かる両国橋の手前で、事務所前に蛇口を見つけて、思わずその事務所の門を叩く。ピースランを説明して、「被り水」させていただいた。井戸水が冷たくていい気持ち。居合わせたチーム「オリーブ・オイル」高橋さんら4人とまとめてお世話になった。ピースランの宣伝チラシを差し上げることは、もちろん忘れない。水浴びて元気百倍、山口県岩国市に入る。有名な錦帯橋を過ぎてJR川西駅から岩徳線を左右に縫うように旧道を走り、玖珂駅前で初日の担当区間24kmを終えた。
サポート車に戻ると、ミホさんがいた。足に痛みはあるが、大丈夫、残って長崎まで行ってくれるという。彼女はマンサンダルを今年4月に初めて作り、Facebookを通じてピースランチームへの参加を決めた。ランナーのサポートはもとより松山さんが連れてきた二人の子ども達を上手に面倒見てくれた。

 

8月7日朝9時半、襷は山口県内を西進して、長府駅前(182km)で掛部さんから再び僕に。掛部さんは山口県出身。今回サポート車を出してくれたほか、宇部のお祖父さんの家を休憩所として準備してくれた。このあと門司まで同道し、仕事仲間でもある三上さんとともに松江に帰る。
8月の日差しはもうすでに暑い。瀬戸内海に出て海峡の激しい潮の流れの向こうに関門大橋が見えた。関門海峡を渡る人道トンネルの入口は橋のたもとにあった。ミホさん、マイコさん、二階堂さん、坪倉さんが車を降りて一緒に渡ってくれる。ところがトンネル入口に向かってエレベーターを降りていく途中で坪倉さんの携帯が鳴る。緊急事態発生、竹ちゃんが動けない!坪倉さんは踵を返して竹ちゃんのもとへ戻る。僕たち4人だけで関門海峡を渡った。門司の出口には地元福岡の土井良さんが待ってくれていた。ここから彼女がサポートしてくれる。正午過ぎの暑さのピークは門司駅近くの「照葉スパリゾート(199㎞)」で休憩して凌ぎ、小倉に入った。常盤橋東詰・長崎街道起点を過ぎて、北九州市役所一階ロビーに展示されている「長崎の鐘」を横目に勝山公園に行くと、マイコさんと土井良さんが待っていた。一緒に公園内の「長崎の鐘(レプリカ)」(原爆犠牲者慰霊平和記念碑)に行こうということだったが、市の行事と重なって通行止めとなっていたため、あきらめて道を急ぐ。八幡駅前で二階堂さんに襷を渡した。2日目は32km走った。
二階堂さんはもっと先の直方(231㎞)から走る予定だったが、毎日走る方が良いからと自ら「余分な距離」を買って出てくれていた。「緊急事態」によって走れなかった坪倉さんや京子さんの分を、結果的に二階堂さんがカバーしたことになる。
襷は米ノ山峠(264㎞)から松山さんに渡った。松山さんは長崎市出身だが、家族とともに島根県に移住してトレイルランニングなどで三上さんらと知り合った。キャンピングカーに改造したタウンエースをサポートカーとして出してくれ、可愛い二人の男の子を連れての参加である。キャンプによく行くから慣れているとはいえ、見知らぬ大人たちに囲まれての3日間は決して楽な旅ではなかっただろう。下の子はまだ小学生にもなっていない。しかし心配は無用だった。子ども達は皆の笑顔の中心、アイドルになってくれた。

 

8月8日、襷は県境を越えて佐賀県に入る。神埼駅(303km)で地元佐賀県から参加の山田さんが待っている。お昼ごろと伝えていたスタートを8時過ぎに早めてきてもらったが、山田さんは温泉宿に泊まるから、と予定の33㎞より7㎞長く武雄温泉駅まで走った。上から下まで日差し完全防御の服装で、氷カップを両手に持って、手を冷やしながら氷水を飲みながら、一番暑い時間帯を走ってくれた。地元のスウィーツ(高橋餅の白桃餅、村岡総本舗のナッツ羊羹)や井出ちゃんぽんを紹介してくれたのも彼女だ。山田さんが頑張ってくれている間、ちょうどサポートカーの定員オーバーということもあって、僕はバスで先回りし、武雄温泉元湯でひとっ風呂浴びて待っていた。15時半にそこで襷を受けると午後の日差しを浴びながら南に向かった。さすがに3区間目、累積走行50㎞を越えると脚も動きが鈍くなる。しかも眠い。でも走る。「襷をつなぐってこういうことなのかな」って思いながら、走る。嬉野温泉シーボルトの足湯でご当地「かき氷アイス」をいただいて元気を取り戻し、19時前には長崎県東彼杵町に入った。夕陽の大村湾に向かって長い坂をかけ下りてしばらく湾岸沿いに走り、とっぷり日が暮れた千綿駅で襷をつなぐ。3日目は36km、これで僕の担当区間は終了(計92km)、あとはサポートに専念する。

 

8月9日、大村から諫早へ南下してついに長崎市に入る。広島出身のマイコさんから最終ランナー、長崎市出身の松山さんに襷が渡る。松山さんを見送ってサポート車を長崎駅前駐車場に置き、眼鏡橋に向かった。先に到着していた松山さんが出迎えてくれた。
ここから、残った7人全員(子ども達含む)で、ゴールまで向かう。早朝6時の空気が心地よい。山王神社二の鳥居や大クスなどの原爆遺跡を見ながら、コンビニに寄りながら、休み休み、約4キロを一緒に歩いた。ゴールの原爆落下中心地公園・浦上天主堂遺壁には8時ごろ到着。近くの喫茶店で一休みしているとその前を門司で別れたはずの三上さんが通り過ぎた。思わず声をかけて聞けば、松江に帰ってメッセンジャーグループの交信を見ていて、いてもたってもいられずに長崎に来てしまったという。とても素敵な再会だ。11時に再びゴールに集合し、11時2分に黙祷。11時5分閉会式、解散。皆で写真を撮り、苦労をねぎらいあって、チーム「ヒナギク」のピースランが終った。


長い、暑い旅だった。眠いし、疲れた。しかし辛いとは少しも思わなかった。目を閉じて思い出すのは、仲間達の笑顔、献身、戦争の傷跡。それぞれの思いを抱いて「初めまして」と集まった10人。襷を繋ぐほどに、困難を乗り越える度に、信頼を深めあった。広島、そして長崎、二つの黙祷を自分たちの脚でつないだ。歩いては間に合わない、一人では届かない。走る仲間がいたから得られた、何とも言えない満たされた静かな心。皆で力を合わせて、423キロの道のりを旅して、気が付けば「ヒナギク」は咲いていた。その花言葉通り、「平和」と「希望」を心に届けてくれた。

 

ありがとうピースラン

ありがとう「ヒナギク