花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

Shoshin 初心

Shoshin(初心*)

子は生まれて4ヶ月も経つと、音や景色など周りの刺激に反応して手足を動かしたり、表情を変えてみたり、表現豊かになってくる。

中でも声の変化が面白い。それまでの母音中心の「アーウー」から、子音濁音が混じる「アグー」になって、「人」っぽく喋る予感がしてきた。

「お腹空いた」「寒い」「オムツ濡れて気持ち悪い」など本能に従って泣くしか無かった4ヶ月前。耳が聞こえて、目が見えてきて、外界の情報が入ってくる。それぞれの情報に目一杯食いついて、手や足や声で反応している。毎日が新鮮な刺激に満ちていて、全てに興味が湧いて、全力で対峙している。そりゃ疲れるよ。よく眠るわけだ。

こんな時が自分にも間違いなくあった。これを「初心」と言うなら、まさに初心忘るべからず。分かってるつもりで、いい加減に見聞きしている最近の自分を、ちょっと反省した。

快いものから呼び起こされる感情を、声を上げて表現すると「笑い」になるのだろうな。いつ孫の笑い声が聞こえてくるのか、楽しみだ。その瞬間の表情をよく見て、共感できる自分であろうと心に誓いながら、ニヤニヤする今日のジジであった😊

(*)Shoshinは禅語として英語になっていてスティージョブズもよく言ってたそうです

ジャム先か、クリームか? Jam or Cream First?

ジャムが先か、クリームか、それが問題だ!

英国人が大好きなスコーンの食べ方問題「ジャム・クリーム論争」が、遂にニューヨークタイムス(NYT)の記事になった。NYTは3/21版で、英国のナショナルトラスト(文化遺産)のうちスコーンが食べられる244か所全てを10年かけて食べ歩いた女性が英国の全国ニュースになったと報じた。その中でスコーンが英国人にとってどれほど重要かを示すエピソードとして、ジャム・クリーム論争に言及している。

好きだなぁ、どうでもいい問題を真剣に白黒つけようとするブリティッシュ魂。200km超ウルトラマラソンは、この執着心無くしては生まれなかったとさえ思う。
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは「俊足の伝令がアテネからスパルタへの約246kmを2日間で走った」というペルシア戦争の逸話を名著「歴史」に記した。しかし実際そんなことできるのか?そんな議論が歴史好きの英国人の間で繰り返されていたのだろう。そしてついには英国空軍の健脚自慢5人による実地検証に話が発展する。1982年のことである。なんで空軍?というのも面白いけど、ともあれ結果3人が34時間半~39時間で完走したことで、逸話が史実に基づくことが証明された(*) 。そして250㎞のウルトラフットレース「スパルタスロン」が翌年から始まる。

 

(*)246km走った伝令さん、実はマラトンの勝利をアテネに伝えるため42.195km走って息絶えた有名人でもある。駄菓子菓子、ヘロドトスはそのことには「歴史」で触れていない。つまりマラソンの起源こそ後世の作り話だった可能性が高い。

 

スコーンに話を戻すと、ニュースになった「時の人」Sarah Merkerさん自身はジャムが先かクリームかを明らかにしていないが、彼女が書いた本"The National Trust Book of Scones"の表紙の挿絵は「ジャム先」だった。クリーム(クロテッド・クリーム)の2大産地の一つデヴォンではスコーンの上にクリームを先に塗り、その上にジャムを塗って食べるのが伝統的であるが、もう一方のコーンウォールでは対照的に、ジャムを最初に塗った後クリームを塗る。

騙されたと思って実際に食べ比べると、明らかに味が違う(ように思えた)。ちなみに僕はジャム先派です。

運が良けりゃ - With a little bit of luck

秋明菊の咲く季節になった。

今年の夏は暑く、繁茂する周りのシダ類との競争が激しかったためか、庭に咲く秋明菊の背丈が例年の倍以上伸びた。競争に負けて日陰で力尽きてしまうこともあったのかと思うと、こうやって花咲くことは奇跡なのだな、と感じる。

「10%の才能と、20%の努力、そして30%の臆病さ、残る40%は…”運”だろうな」

ふと、漫画「ゴルゴ13」の一場面を思い出した。ある依頼者から「プロとしての成功する条件は」と問われた時に発した主人公の言葉だ。

プロとして妥協なく腕を鍛える。その努力の貢献はたかだか20%か。「1%の才能と99%の努力」とエジソンはいったが、確かに秋明菊も運次第。気候や道行く人間(動物)の気まぐれで、咲けないこともある。

だが待てよ…

臆病さ(30%)は自分の意識の問題なので、見方を変えれば、努力と臆病さによって、成功条件の半分は自分で準備できる、とも言える。自分のできることを精一杯やってようやく半分。それでも運や才能で負けることも半分あると覚悟する…

そう考えると、さすがは超一流プロの言葉だと納得できる。百戦錬磨の「失敗しない男」をして、成功を確信できるのは半分までと言わしめる。それが主人公の臆病さであり、作者さいとうたかをの人生観なのかもしれない。

ひょろっと背高の秋明菊が、より一層愛おしく見えてきた。”with a little bit of luck ♪”(「運が良けりゃ」マイ・フェアレディ)の歌が頭にこだました😊

僕の「青い空は」… 2022 広島・長崎リレーマラソンを走って

  青い空は青いままで

  子どもらに伝えたい

 

  燃える八月の朝

  影まで燃え尽きた

 

  父の母の 兄弟たちの

  命の重みを 肩に背負って 胸に抱いて

 

8月が来るたびに思い出す「青い空は(小森香子作詞、大西進作曲)」。綺麗なメロディで始まる歌声に耳を澄ますと「燃える8月の朝、影まで燃え尽きた…」と続く歌詞に衝撃を受けた。原爆投下された爆心地近くの地表温度は3,000℃〜4,000℃に達したとされる。家族旅行で広島に行き、平和資料館で「人影の石」を見てその言葉を一層深く心に刻んだ。18歳の夏だった。

 

広島‐長崎リレーマラソン(ピースラン)は2019年、渋谷一秀さん(シブシブ)が史上二人目の単独走を達成した時のFacebookで知った。8月の炎天下に423km走ること自体かなり過酷な挑戦だが、広島・長崎における黙祷の間に平和への祈りを重ねて昼夜分かたず走ることで、そこに暮らす人々、山や海の景色、空気感を全身で感じることができる気がした。シブシブの走りに、これまでに感じたことのない感動を覚えた。走ることで人に伝わる何かがある。「ラン」の可能性を感じたのだった。

 

今年のピースランには、「マンサンダル」というソール厚6mmの手作りサンダルで走る仲間たちと参加した。単独走に挑む竹内剛博さん(竹ちゃん)をサポートするチームを結成すると聞いて、手を挙げた。10名のメンバーが決まったのは6月末だが、走る順番や区間割が決まったのは本番1週間前だった。お互いにメッセージ交換だけで、打合せもなく、ほとんどのメンバーは当日「初めまして」だった。逆に言えば全て代表の坪倉さんにお任せだったので、準備を手伝えずに申し訳ないことをした。僕の準備といえば、前日の説明会から9日までフル出場する時間確保と地図読み、そして何より元気な身体だった。

 

8月6日、朝食に喫茶「コロナ」の女主人からいただいた茹で卵を食べた。彼女自身はお父様が満鉄勤務でチチハルに住んでいたため被曝は免れたが、着のみ着のままで満州から引き揚げてきた。101歳のお母様が女学生の頃、皆既日食時に太陽の周りに見える「コロナ」という美しい光を知って、銀山町(かなやまちょう)に開店した店の名前にしたという。ピースラン走ると言ったら、これ食べて頑張ってねと、卵を2個手渡してくれた。
原爆ドーム南側の噴水付近に集合。シブシブ、竹ちゃん、をはじめ、ウルトラマラソンの大会でよく合う面々と挨拶を交わすと、少し緊張が解れる。皆で平和を祈って走ろうって思う。

午前8時15分に黙祷。77年前、ここで、影まで燃え尽きた…。犠牲になった方々を追悼し、二度と戦争はしない、と誓う。

午前9時、「ヒナギク」の第一走者マイコさん(広島出身)は裸足でスタート。原爆から逃げた人たちには裸足だった人たちも多くいたはず。思いを込めて走って二番手、同じく広島出身のミホさんへ襷を繋ぐ。僕は三番手として彼女を待っていると緊急事態発生。踵を負傷して歩いているという。落ち合う場所を予定より手前に変更して急行する。サポート車に乗っていた三上さんがミホさんを見つけ、そこから代わって走ってきた。襷を受けて、ひたすら坂を上ると道が途絶えて右側に鉄パイプの階段がある。苦の坂峠に続く道だ。グーグルマップに出てない竹林に囲まれた「道なき道」を700mほど走って県道1号に出る。サポート車が先回りしてくれて5km毎くらいに給水してもらうが、時刻は14時、とにかく暑い。広島・山口の県境に架かる両国橋の手前で、事務所前に蛇口を見つけて、思わずその事務所の門を叩く。ピースランを説明して、「被り水」させていただいた。井戸水が冷たくていい気持ち。居合わせたチーム「オリーブ・オイル」高橋さんら4人とまとめてお世話になった。ピースランの宣伝チラシを差し上げることは、もちろん忘れない。水浴びて元気百倍、山口県岩国市に入る。有名な錦帯橋を過ぎてJR川西駅から岩徳線を左右に縫うように旧道を走り、玖珂駅前で初日の担当区間24kmを終えた。
サポート車に戻ると、ミホさんがいた。足に痛みはあるが、大丈夫、残って長崎まで行ってくれるという。彼女はマンサンダルを今年4月に初めて作り、Facebookを通じてピースランチームへの参加を決めた。ランナーのサポートはもとより松山さんが連れてきた二人の子ども達を上手に面倒見てくれた。

 

8月7日朝9時半、襷は山口県内を西進して、長府駅前(182km)で掛部さんから再び僕に。掛部さんは山口県出身。今回サポート車を出してくれたほか、宇部のお祖父さんの家を休憩所として準備してくれた。このあと門司まで同道し、仕事仲間でもある三上さんとともに松江に帰る。
8月の日差しはもうすでに暑い。瀬戸内海に出て海峡の激しい潮の流れの向こうに関門大橋が見えた。関門海峡を渡る人道トンネルの入口は橋のたもとにあった。ミホさん、マイコさん、二階堂さん、坪倉さんが車を降りて一緒に渡ってくれる。ところがトンネル入口に向かってエレベーターを降りていく途中で坪倉さんの携帯が鳴る。緊急事態発生、竹ちゃんが動けない!坪倉さんは踵を返して竹ちゃんのもとへ戻る。僕たち4人だけで関門海峡を渡った。門司の出口には地元福岡の土井良さんが待ってくれていた。ここから彼女がサポートしてくれる。正午過ぎの暑さのピークは門司駅近くの「照葉スパリゾート(199㎞)」で休憩して凌ぎ、小倉に入った。常盤橋東詰・長崎街道起点を過ぎて、北九州市役所一階ロビーに展示されている「長崎の鐘」を横目に勝山公園に行くと、マイコさんと土井良さんが待っていた。一緒に公園内の「長崎の鐘(レプリカ)」(原爆犠牲者慰霊平和記念碑)に行こうということだったが、市の行事と重なって通行止めとなっていたため、あきらめて道を急ぐ。八幡駅前で二階堂さんに襷を渡した。2日目は32km走った。
二階堂さんはもっと先の直方(231㎞)から走る予定だったが、毎日走る方が良いからと自ら「余分な距離」を買って出てくれていた。「緊急事態」によって走れなかった坪倉さんや京子さんの分を、結果的に二階堂さんがカバーしたことになる。
襷は米ノ山峠(264㎞)から松山さんに渡った。松山さんは長崎市出身だが、家族とともに島根県に移住してトレイルランニングなどで三上さんらと知り合った。キャンピングカーに改造したタウンエースをサポートカーとして出してくれ、可愛い二人の男の子を連れての参加である。キャンプによく行くから慣れているとはいえ、見知らぬ大人たちに囲まれての3日間は決して楽な旅ではなかっただろう。下の子はまだ小学生にもなっていない。しかし心配は無用だった。子ども達は皆の笑顔の中心、アイドルになってくれた。

 

8月8日、襷は県境を越えて佐賀県に入る。神埼駅(303km)で地元佐賀県から参加の山田さんが待っている。お昼ごろと伝えていたスタートを8時過ぎに早めてきてもらったが、山田さんは温泉宿に泊まるから、と予定の33㎞より7㎞長く武雄温泉駅まで走った。上から下まで日差し完全防御の服装で、氷カップを両手に持って、手を冷やしながら氷水を飲みながら、一番暑い時間帯を走ってくれた。地元のスウィーツ(高橋餅の白桃餅、村岡総本舗のナッツ羊羹)や井出ちゃんぽんを紹介してくれたのも彼女だ。山田さんが頑張ってくれている間、ちょうどサポートカーの定員オーバーということもあって、僕はバスで先回りし、武雄温泉元湯でひとっ風呂浴びて待っていた。15時半にそこで襷を受けると午後の日差しを浴びながら南に向かった。さすがに3区間目、累積走行50㎞を越えると脚も動きが鈍くなる。しかも眠い。でも走る。「襷をつなぐってこういうことなのかな」って思いながら、走る。嬉野温泉シーボルトの足湯でご当地「かき氷アイス」をいただいて元気を取り戻し、19時前には長崎県東彼杵町に入った。夕陽の大村湾に向かって長い坂をかけ下りてしばらく湾岸沿いに走り、とっぷり日が暮れた千綿駅で襷をつなぐ。3日目は36km、これで僕の担当区間は終了(計92km)、あとはサポートに専念する。

 

8月9日、大村から諫早へ南下してついに長崎市に入る。広島出身のマイコさんから最終ランナー、長崎市出身の松山さんに襷が渡る。松山さんを見送ってサポート車を長崎駅前駐車場に置き、眼鏡橋に向かった。先に到着していた松山さんが出迎えてくれた。
ここから、残った7人全員(子ども達含む)で、ゴールまで向かう。早朝6時の空気が心地よい。山王神社二の鳥居や大クスなどの原爆遺跡を見ながら、コンビニに寄りながら、休み休み、約4キロを一緒に歩いた。ゴールの原爆落下中心地公園・浦上天主堂遺壁には8時ごろ到着。近くの喫茶店で一休みしているとその前を門司で別れたはずの三上さんが通り過ぎた。思わず声をかけて聞けば、松江に帰ってメッセンジャーグループの交信を見ていて、いてもたってもいられずに長崎に来てしまったという。とても素敵な再会だ。11時に再びゴールに集合し、11時2分に黙祷。11時5分閉会式、解散。皆で写真を撮り、苦労をねぎらいあって、チーム「ヒナギク」のピースランが終った。


長い、暑い旅だった。眠いし、疲れた。しかし辛いとは少しも思わなかった。目を閉じて思い出すのは、仲間達の笑顔、献身、戦争の傷跡。それぞれの思いを抱いて「初めまして」と集まった10人。襷を繋ぐほどに、困難を乗り越える度に、信頼を深めあった。広島、そして長崎、二つの黙祷を自分たちの脚でつないだ。歩いては間に合わない、一人では届かない。走る仲間がいたから得られた、何とも言えない満たされた静かな心。皆で力を合わせて、423キロの道のりを旅して、気が付けば「ヒナギク」は咲いていた。その花言葉通り、「平和」と「希望」を心に届けてくれた。

 

ありがとうピースラン

ありがとう「ヒナギク

ミシェル・ウーとベリタス(真実) - Michelle Wu and Veritas (truth)

ミシェル・ウィーといえば、韓国系アメリカ人の女子プロゴルファー。長身で男子顔負けの飛距離を誇り、実際男子プロの試合にも出場して話題となった。10年以上前のことだ。

先週のボストン・グローブ紙の見出しに、その懐かしい名前を見つけた、と思ったら一文字違いのミシェル・ウー。こちらは台湾系アメリカ人で、37歳のボストン市長。ハーバード大学の卒業式にゲストとして呼ばれてスピーチした。

彼女はそこで、大学の校章に書かれている ”veritas(真実)”を引用して、①自分の真実に向き合い、②真実を語り、③真実に挑戦すること、を卒業生に期待した。

①では自分をもっと大切にするよう、②はフェイク・ニュースなどの現状を民主主義の危機と捉えて、③は市長としてバス・地下鉄の無料化に取り組んでいることを例に挙げて、訴えた。

この時代に公共料金無料化か?と感じる人も多いだろうし、実際無理だと言ってた市民も多い。しかし大学卒業直後に発病した母親の看病と妹たちの養育をしながら、喫茶店で生計を立てていた体験をもとに、そのような状況の市民に最も必要なことの一つは「無料の足の確保」であると確信した。一見不可能と思われることも真実であれば実現できると、「政治から一番遠い学生だった」彼女が市長に立候補・当選して、その挑戦を実行している。

4月に13年ぶりに訪れたボストンで「空港〜市内の無料バスサービスは臨時休止中」との掲示を見て、驚いた。空港ターミナル間の無料サービスはよく見るけど、市内までもが無料とは⁉️

彼女の挑戦の成果が就任1年目にして出てきてたということだろうか?女性として、アジア系として、また有色人種として史上初のボストン市長となった彼女の「真実への挑戦」から、目が離せない。

相手国(人)の立場に身を置く重要性 - The importance of placing ourselves in the other country's shoes

コロナ禍中で対応の遅れが目立っていた我が国政府もようやく「出口戦略」を打ち出したところで、2週間前にロシアによるウクライナ侵略が始まり、世界が再び混とんの方向に振れだしてしまった。

IMF国際通貨基金)は今週水曜日(3/9)ウクライナに対する緊急融資140億ドルを発表し、翌日世界の報道機関を呼んで説明会(Round-table)を開き、当事国であるウクライナをはじめ、欧州、米州、アフリカ、中東、インド、中国、そして日本(日経新聞)の質問に答えていた。パンデミック・戦争といった一見すると専門外とも思える出来事に対応するIMFの姿勢と実行力には感心するし、陣頭指揮をするクリスタリナ・ゲオルギエヴァ議長のリーダーシップには頭が下がる。緊急事態に対応して自分たちのできることを考え抜き、タイムリーに発信する。IMFとしての具体的手段を提供して、政治リーダーの動きを促す。これこそが真のプロフェッショナルだと感じ入った次第だ。世界経済がパンデミックから立ち直ろうとしているときに、この戦争は当事国であるウクライナ・ロシアに打撃を与えるばかりか、既に高騰している石油や穀物といった国際商品を通じて世界に、特に最貧国に、手痛い打撃を与える。その危機感がIMF議長を動かしている。

ちょうど1週間前、米国ファンド会社Collaborative Fundのブログに"Surprise, Shock, and Uncertainty(驚き、ショック、そして不確実性)"と題した記事があり、コロナ禍とウクライナ戦争の共通点に言及していた。それはいずれも過去に何度となく起こっていたにも関わらず、人々が過去の遺物として顧みずに再度引き起こしてしまう人類の性(さが)という点だ。戦争に関していえば、世界が破滅一歩手前まで行ったキューバ危機を経験しているが、それが回避できた破滅であったがゆえに「狂気はさらなる狂気に」発展しうることを忘れているのかもしれないと警告している。

 

www.collaborativefund.com

キューバ危機の13日間を振り返ったロバート・ケネディの手記 "13 Days" によれば、彼の兄で当時の米国大統領だった J・F・ケネディは、常に相手国(人)の靴に自分の足を入れて決断していたという。すなわち対峙していたソビエト連邦のクルシュチョフ議長の立場で、米国がキューバ海上封鎖したらどうするか、空爆したら反撃せざるを得ないだろう、と想像を巡らせていた。したがって直ちに建設中のミサイル基地はもとより、軍事基地を空爆して侵略せよという強硬派を抑えて、「検問」から始めた。お互いの誤算・誤解が事態を悪化させる対応を呼ぶ。それが戦争の始まりだ。だれも望まない、誰も勝者にならない核戦争に。

ケネディ大統領は後にアメリカン大学での演説(1963年6月)でこう述べている。「なによりも核抑止力によって、自分たちの決定的な権益を守りながら、相手国に屈辱的な敗北か核戦争かの選択を迫るような対立を避けなければならない。」

彼はキューバ危機の交渉中、常に相手は合理的かつ賢明であり、十分な時間を取って自国の決意を示し続ければ、わかってくれると信じていた。そして自分達の側に間違い・誤算・あるいは誤解の可能性があることを認識し、その可能性をできる限り低減することに全力を尽くした。人類が滅亡に最も近づいたと言われる危機を叡智と決断で回避した後、ケネディはスタッフに「勝利会見」を開くなと厳命した。ともに危機を乗り切ったクルシュチョフ議長に敬意を表し、これが何かの勝利であるとすれば次世代の勝利であり、特定の政府や人々のものではないと述べた。

ウクライナ戦争の当事者であり、ロシアのリーダーであるプーチン大統領核兵器使用の可能性まで言及して、ウクライナを脅している。彼にも、ウクライナのリーダーにも、そして他の世界市民にも、戦争には勝利者は無いことを心にとめてもらいたい。一刻も早い停戦となることを願っている。

ウクライナを2008年からの文脈で眺める - Another view to the Ukraine War

現地時間2/24未明に始まったロシアによるウクライナ侵攻には、21世紀になってもまだこのような行為が行われるのか、と耳を疑った。国連総会でロシア非難を決議したのは当然として、その前の安全保障理事会におけるロシア代表の「すべての責任はこれまでの約束を果たさなかったウクライナにある」とした発言にも重ねて耳を疑った。

 

しかし、2022年2月の現状をスナップショットでとらえれば、ロシアのプーチンによる一方的な蛮行と映るが、2008年ブカレストNATOサミットからの一連の出来事を2014年のクリミア併合含めて続けた連続した映像として見ると、少なくともこの事態は予見できていたし、経済制裁でロシアを屈服させるよりもウクライナの軍事的中立を確保したほうが総合的なリスクを軽減できるという主張にも一理あるという気がしてきた。もちろん罪のない市民を巻き添えにした戦争犯罪を1ミリたりとも軽く見る意図はないけれども。

 

実はこの考え方は7年前の2015年、シカゴ大学教授のJohn J. Mearsheimerが "The Causes and Consequences of the Ukraine Crisis "と題した講演から引用している。彼は全てのスタートを2008年にNATOウクライナの加盟を示唆したブカレストサミットとしている。ロシアは地理的にドイツとウクライナポーランドを介して対峙している。ポーランドが西側に組することが明確になっていた当時、ウクライナがさらに西側の一員になることはロシアの安全保障上の脅威となっていた。この見方は冷戦時代のバランスオブパワーの論理であり、冷戦後の外交とは一線を画すと思われがちだが、ロシアは違うし、Mearsheimer教授も外交の現実はまだその冷戦時の理屈で動くとみている。その証左がクリミア併合だ。ブカレストサミットの後、親ロシアのヤヌコビッチ大統領が2014年2月の「オレンジ革命」で本国を追われ、新政権は少数派言語(ロシア語)を禁じる暴挙に出た。ロシアはその政策に代表される一連の政策が、ウクライナ東部のロシア語圏の人々を苦しめるばかりか、NATO加盟へのステップとみて警告した。しかしウクライナ政権が原状回復に応じないとして翌3月にクリミア併合に打って出た。

 

歴史は繰り返す。今回のウクライナ戦争は、クリミア併合と同じ論理で、しかしより大規模に繰り広げられている。西側は経済制裁を強化してプーチンを追い詰めようとしているが、プーチン側にも上記のような理がある。本人が核兵器使用をちらつかせているように、最大の脅威は経済制裁で追い込まれたプーチンが、軍事的に降伏せずに核兵器使用に踏み切ることだ。もともとウクライナは米国にとって軍事的にも経済的にも最重要地域ではない。ドイツなどEU諸国にとっても然りだ。しかしロシアにとってウクライナNATO加盟は死活問題なので、一番双方に利のある解決策はウクライナの軍事中立化を約束して即時停戦することだと教授は主張する。

 

教授は7年前の講演後の質疑応答で、米国にとっての本当の重要地域は、東アジア、中東であって、欧州はすでに過去のものであるとした上で次のようにも語っている。米国が世界一で唯一の超越的軍事大国である現在は、どのような外交的失敗も許容できる。しかし今後一番の脅威は中国の台頭であり、リスクの高い地域は第一に台湾、第二に南シナ海、そして最後に尖閣諸島だと。その話を敷衍すれば、このまま経済制裁でロシアを追い詰めて核使用に至ること。その後の世界の不安定さに乗じた中国、台湾、そして日本のナショナリズムの台頭で、アジアの火種に着火するリスクも孕んでいる。

 

世界の知性と理性が、この流れを食い止めることができるか?ウクライナ戦争の休戦が喫緊の課題であるが、その先を見据えて長い歴史の文脈に照らしたグローバルな連帯が問われている。

 

youtu.be

 the R. Wendell Harrison Distinguished Service Professor in Political Science and Co-director of the Program on International Security Policy at the University of Chicago, assesses the causes of the present Ukraine crisis, the best way to end it, and its consequences for all of the main actors. A key assumption is that in order to come up with the optimum plan for ending the crisis, it is essential to know what caused the crisis. Regarding the all-important question of causes, the key issue is whether Russia or the West bears primary responsibility.