花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

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自由と民主主義 - 菅首相訪米に思うこと

菅首相は昨日(2021年4月16日)米国首都ワシントンDCでバイデン大統領と会談した。コロナ禍で政府首脳の会議でさえTV会議が多い中で、お互い顔を見合わせての会議だ。双方に意味のあるものだったと信じたい。「自由と民主主義という共通の価値観」で結ばれた両国首脳と良く言われるが、今ほどその危機が迫っている時はないからだ。ただ具体的に伝わってくるのは中国対策、脱炭素などに対する政治的な目合わせであり、あるいはファースト・ネームで呼び合う「ヨシとジョー」の親密さアピールだったりで、本質的な議論や決定がなされたと純粋に信じるほどウブでは無い。

 

自由と民主主義は、厳密に定義しようとすると難しい議論もあろうが、ここでは「個人の幸せを追求する権利が保障され、民主的な手続きによって制定された法のみによって制限を受ける」社会の基礎であり、国民主権基本的人権、平和主義という日本国憲法の掲げる基本的な理念・価値としておく。

 

そして今、なぜ危機かといえば、第一にコロナ禍で全体主義的な政策を求める世論が増加傾向にあり、そして第二にインターネットの普及とIT技術の発展によって市民の情報が一部の集団(GAFAや政府など)に集中しつつあるからだ。その両者が結びついた時、すなわち全体主義的な勢力(必ずしも政府であるとは限らない)が一般市民の情報を手中にした時、底知れない人権侵害の嵐が吹き荒れると危惧する。

 

第一の危機については比較的わかりやすいかもしれない。中国の台頭が、目に見える危機として報道されているからだ。日米首脳会談の文脈で軍事的な脅威として捉える向きもあるが、警戒しなくてはならないことは、中国が新型コロナ感染の広がりを全体主義的手法で抑えていることだ。欧米民主主義国家の政治リーダーの多くは、不人気になることを恐れて自由を制限できなかったり、そうこうしているうちに対応が遅いと非難されたりして、全体主義国家のリーダーを羨んだかもしれない。しかし新型コロナの危機対応の重要性が増せば、民主主義的政治システムを全体主義的な権力集中の仕組みに変え易くなる。国民もコロナ対策のためならと、自由制限を容認する。そこに自由と民主主義の第一の危機が潜む。

第二の危機は人々の方から呼び寄せている側面があり、わかりにくい。自分も含めて多くの人々は、インターネットの普及とともに、一見すると無償の情報サービスを歓迎した。ウィキペディアを駆使し、フェイスブックやインスタグラムに進んで投稿した。YouTubeで好きな映像を見て、音楽を楽しんだ。その行為一つ一つがデータとして蓄積されて、商売にされているのも知らずに。

気がつくと自分の好みを先取りしたような広告や宣伝がどんどん目の前に現れる。無償サービスを利用しようとすると、うるさいほどの広告に邪魔されて、有償のプレミアム会員に「アップグレード」を余儀なくされている。遊びで写真を撮るたびに、友人と経験をシェアするたびに、誰かが見ていて商売道具にされている。つまり「タダで使っている」つもりが、「タダで相手ために働いて」いたのだった。搾取されているのだ。

 

EUなどがGAFAを規制したり、個人情報保護を厳しく要求するようになったのはその危機感があるからだ。日本政府はその点では完全に後手に回っているが、皮肉なことに日本は非効率な縦割り行政のおかげで、政府に情報がそれほど集中していないので、政府自身が脅威にはなっていない。しかしコロナ禍でIT化が進めば、早晩その危機が訪れる。

 

新型コロナウイルスはよくスペイン風邪の流行時と比較されるが、政治的にはむしろ第2次世界大戦前の状況に酷似するかもしれない。ナチスが最初共産主義者を逮捕し、次にユダヤ人を収容したように、現象は社会の弱い部分に現れる。中国におけるウイグル族や香港の人権問題、マイノリティ・人種差別、貧困問題などだ。世界に現れるそれらの問題解決を、国境線で、あるいは文化集団、年齢集団などで、分断していく勢力に委ねてはならない。彼らは国境を封じて自国だけが良くなろうとする。自国ファーストとナショナリズムを煽るだろう。民族や世代を特別視して、それらの問題だと矮小化する。それらに抗して、地球市民の連帯で乗り越えなくてはならない。国家的な危機を理由として人権が安易に制限される仕組みを排除し、日々嬉々として搾取されている自分達の現状に気づいて、人々が連帯して抵抗すること。これこそが現代の自由と民主主義を守る課題である。歴史に学んだ人類の知性の真価が問われている。