花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

居場所

 

「わたしたちは自分自身の力で、自分の2本の足で辿り着いた場所に属している。そして、属しているということが何も求めずに全てを与える無償の愛を捧げることであるとき、わたしたちはお互いに属している。自由。家にいるとき、わたしたちは自由だ。」

(ウルトラトレイルランナー リジー・ホーカー)

 

この言葉は米国の詩人マヤ・アンジェロウの「どこにも属さず、あらゆる場所に属し、全くどこにも属さない。それが自由だ。」にヒントを得ている。リジーはランナーとして輝かしい戦歴を残しながらも、主な持ちものはパソコンとネパールに置いてる自転車だけ。家はない。しかし「あらゆる場所に属し、どこにも属さない」から、2本の足で世界中に自分の居場所を見つけ出すことができる。初めてウルトラマラソンを走った英国南部サウス・ダウンズ・ウエイの牧歌的風景を眺めながら、あるいはスイスのツェルマットの上、ツムット近くで岩にもたれてマッターホルンを見上げながら、その風景の中に存在することでその風景を自分のものにすることができた。「この大地と私が一つだと知った瞬間を、誰も奪うことはできない。」と彼女はいう。

 

物理的な「家」に自分が属していて、そこに住んでいたとしよう。どれほど気に入った場所にどれほど素晴らしい家族と長く快適に暮らしていたとしても、天災などの外部環境の変化によっては、私たちが選択するしないにかかわらず、その「家」は奪われてしまう可能性がある。一方どれほど外部環境が変わろうとも、ある人またはある集団が悪意を持って来ようとも、私たちの心は奪えない。絶望的な環境で酷い仕打ちにあって、恐怖に怯えてどうして良いかわからない時も、最後に態度を決める自由は自分の心にある。だから究極的な私たちの属するところは、私たち自身の心の中になくてはならない。それが彼女の考えだ。

 

どこにも属さず、しかし行く先々のどこにでも属して、「自分のいるべき場所にすっぽりと収まっている」感覚を得る。そして「それは場所でなくてもいい…人でもいいし、ある人に抱く感情…その人が私の中に呼び覚ます感情でもいい。それは愛だ。」

 

誰からも奪われることがない自分の心の中に、居場所をみつける。そしてそこでは「何も求めずに全てを与える無償の愛を捧げること」も大切だ。

 

自分が、例えば親の待つ実家に帰ってホッとするのは、そこで親の愛情を受けるからかもしれない。親は見返りを求めない。いつでも自分がどんな状態でも受け入れてくれる。しかし幼少の頃のように「愛をいただく」のでは、幸せは親次第、人任せということになる。マッターホルンを見上げて風景と一体感を感じるときに「全てを与える」気持ちになるように、自分から無償の愛を与えることこそが幸せの真実であると、彼女は人生、特に走ることを通して学んだのだと思う。

 

お互いにサポートが必要なのは間違いないが、最終的に頼りになるのは自分だけ、というのは人生における二律背反の真実だ。

 

走っていても、転んだからと言って誰も自分の代わりに起き上がってはくれない。しかし走るのはひとりであっても、ひとりでは走れない。ウルトラマラソンは長時間にわたって一人きりになることは避けられない。けれども一人きりであることと寂しいことは同じではない。完全に一人きりであっても人の愛を感じられる時は寂しくない。人混みの中でも、数人と一緒でも、繋がりが失われれば寂しさを感じる。

 

どこにも属さず、行くところどこにでも属して、そこに見返りを求めない愛を捧げて、自由に今を生きる。そこが自分の居場所。「好きなこととできることだけをする。」今月先立った友人の言葉にも通じる生き方だと感じている。