花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

何も求めない

「何も求めず、ただ座るだけ」。兵庫県北部の山奥にある禅寺、曹洞宗・安泰寺で、年間1800時間に及ぶ座禅を中心とした自給自足の生活をする修行僧の一年がテレビ放映されていた。僧の中には外国人も複数含まれていた。3年間の「何も求めない」修行の最終年を迎えているドイツ人は、気付かぬうちに禅僧としての理想像を自分に「求めていた」ことに気づき悩んだりする。禅の教えは不立文字、すなわち言葉では表せないだけに、定義から始まる言葉の世界に慣れ親しんだものにとって修得することは困難を極めるのだろう。しかしその後、「今」の自分を受け入れて、(受け入れることで)自分は完璧だと捉え直して、「今」に集中することが全てだと気付く。そして安泰寺の修行を終えてさらに修行を深める道を選ぶ。

川崎市で「NPO法人らぽうる」の代表理事として「生きにくさを抱えた人たち」に対する支援を続ける北川千鶴子さんは、岩手県の電気も通じていない不便な田舎に育つ中で、現実を受け入れ楽しみを見つけて生きることを学んだという。「生きていれば何とかなる」が生きていく原点として育まれ、活動が苦しい時の踏ん張りになっている。何かが必要とされた時、全部はできないけれども「あぁ生きていてもいいか」「明日は何とかなる。明日も生きていいか、今日を何とか生きていこう」と思ってもらえる支援ができたらという核が活動の原点として心の底に脈々と流れている。

仏教の僧も福祉の活動者も、志高く広く多くの人たちを救いたいと願う。しかし現実は必ずしも思い描いた通りには行かない。だから夢を諦める、というのではなく、現実を受け入れる。できない自分を丸ごと受けとめて愛おしむ。受け入れることで、欠点と見えていたところが、今の自分にとってのベストだと認識できるようになる。そして目の前の「今」に「その場(ここ)」で集中する。目の前の一人ひとりにあるいは一つひとつに丁寧に対応して、一人ひとり、一つひとつを大事にしていく。「今ここ」に生きる。もしかしたらそれが悟りであり、幸せなのかもしれない。世間でいう成功でもなく勝利でもなく、何も求めずに「今ここ」に生きることが。

 

「悟りの前、木を切り、水を運ぶ。

悟った後、木を切り、水を運ぶ。」

 

こんな禅の言葉を思い出した。