花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

4月になれば彼女は…。 妻を想う

4月13日は妻の命日だ。

2011年に教職を辞めて、僕のドイツ駐在に同行してくれた妻。それは、日本に戻っても復職せず、大好きな茶道に時間を使いつつ、老後を見据えたライフスタイルをあれこれ思案していた矢先だった。癌が見つかり、1年半の闘病後に他界した。5年前、52歳だった。

彼女との出会いは31年前に遡る。

1990年8月に当時駐在していたニューヨークで会い、一週間後にはプロポーズしていた。運命的な7日間だった。12月に入籍し、翌年5月から25年余りを共に過ごした。短いといえばそうだが、最後の1年半を除けば、24年間がハネムーンだったような、幸せな時を過ごした。一緒に人生を歩んだ尊い時間は、しっかりと心に刻まれて今も僕を幸せにしてくれる。先立たれた当時の深い悲しみは時間とともに妻への感謝に変化してきた。

闘病中は、妻を支えるつもりで、気を強く持つことや励ますことに終始して、彼女を笑わせる事ができなかった。それが悔いだ。逆に死の直前に彼女は、「お煎餅が食べたい」「プリンが食べたい」と言って周囲を驚かせ、嬉しそうにぺろりと食べた。義母は愛くるしい長女を、義弟は優しい姉を、そして僕は最愛の妻の無邪気な表情を見て、ホッとした。顔を見合わせて笑った。この世の最後の一本は彼女に取られた。

 

当時のメモを探して、初めて当時を詳細に振り返ってみる。

 

2016年1月。所謂「末期」を宣告され、僕は仕事を休むことにした。緩和病棟に移ってからしばらくは、この病気の長く付き合いながらどうやって生活していくかを考えていた。「緩和」の入院は3ヶ月までが原則。家に可動式のベッドを置き、手すりを廊下やトイレ浴室に付けて、訪問介護を受ける。僕は何らかの仕事を続ける。それが選択肢のように思えた。

そうこうしていると3月、医者は「余命が短いので、早く家に帰ったほうがいい。」と帰宅を進めた。妻も夫が仕事を休んでいることを気遣ってか、帰りたいと言い出した。しかし「私はムーちゃん(僕)を食い物にしている。こんなに役に立たない人を置く人はいない。」「住むところのない人はどこへ行けばいい。」などと辛いことも言う。今思えば、死の不安に苛まれていたのだろう。

4月になって、いよいよ来週は帰宅という時に、彼女の病状が変化した。食欲がなくなり、食べ物を口から受け付けなくなった。吐き気留め、抗うつ剤、を点滴とともに受けると彼女は落ち着いた。心も冷静になったのか、僕の仕事について心配してくれた。

「(看病で休めていると言うことは)会社にいなくても良いと言うこと。」

「(職場にそのまま)戻れると思ったら甘い。」

「(僕は)想像力が弱い。」

僕は、「大丈夫、僕のことは心配しないでいいから。」と正面から受け止めずに夢中で返したが、彼女は現実を冷静に見据えていた。

 

彼女自身のことについては、

「(帰宅しても)何もできない。」

「水も点滴もいらない。」

「上腕を固定して点滴するのは拒否したい。」

と、今から思えば尊厳死を望むような内容のことを言っていた。僕はと言えば「そんなこと心配しなくていい。」というのが精一杯で、丁寧に寄り添う余裕がなかった気がする。

そして、彼女は素晴らしいことを言った。母の日のプレゼントを手配していないことに気づいたのだ。グッド・アイデア❗️僕が翌日朝一番でやることを約束した。4月10日、死の3日前の夜のことだった。

 

翌日、出血。

病床で彼女はまた「妻の目」をして僕に言った。「仕事の本読んでる?」

医師は、「病院に呼びたい人がいれば、連絡しておくように。」と僕に耳打ちした。義母と実家に伝え、義母と義弟が来ることになった。

4月12日の夕方、二人が上京してきた。時ならぬ賑やかな病床に彼女は何を思ったのか、「お煎餅が食べたい」と始まったのだった。水もゴクゴク一気に飲んで、プリンまで食べた。しかしそれまで点滴しか受け付けなかった身体だ。急に戻して、ベッドについた。寝るときは点滴を付けるのがルーチンだが、「お水はいらないんだよ」と何度も何度も言って、点滴を拒んだ。それも無駄な抵抗で、点滴打たれて寝入った。これが最後の言葉となった。

夜中に痰が絡んで、咳をしながら「あー」と声を上げる。意識が薄らいでいくので、手を握って歌を歌って意識をつなげる。一時持ち直す。痰を吸引してもらう。手を握りそのまま寝入ったように見えた。また痰が絡んだ咳をして、看護婦を呼んだ。時間が長く感じた。看護婦がついた頃には息絶えていた。4月13日未明のことだった。諸手続きして、化粧をした彼女と僕が車で葬儀場に向かう。別れを悲しむかの様に雨が車窓を打った。

 

3月31日付けのメモに、インド系アメリカ人の「平和公演家」Prem Rawatの言葉があった。病院の雑誌にでも載っていたのだろうか。

彼は、次のように言う。

「人は心を怒りや悲しみに支配された時に、地獄へ行く。感謝、愛、平和に包まれれば天国に行く。天国も地獄も行くのに死を待つ必要はない。今すぐにどちらへでも行ける。どっちに行くかは自分次第だ。求めるものも、その答えも、全て自分の中にある。幸せ、感謝も自分の心から湧き上がってくるもの。内なる声を聞きなさい。あるがままを受け入れて選択肢を得る。身につける。そうすれば自分の心のランプに火が灯り、未来を照らし、望むところに行ける。人生を楽しむために心と体が与えられている。心の中でありのままの自分と向き合い、自分の花を咲かせよう。今を生きよう。目的地につくことではない。心を感じることが大切だ。」

 

5回目の命日に、あらためて今を生きることを、思った。感謝、愛、平和に満たされた心で。