花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

人生最良の時はこれから - The best is yet to be,

本棚を整理していると、「映画で英語を学ぶサークル」で亡き妻が使っていたノートが出てきた。映画のセリフを書き写したりしたものだが、一番後ろのページにあった走り書きのメモに目がとまった。

 

"Grow old along with me!

The best is yet to be,

The last of life, for which the first was made:
Our times are in His hand
Who saith “ A whole I planned,
Youth shows but half ; trust God:see all nor be afraid ! (Robert Browning)”

 

    老いゆけよ、我と共に!

   最善は常に未来にあり。
   人生の最後、そのために最初も造られたのだ。
   我らの時は御手(神の手)の中にあり。
   神言い給う「全てを私が計画した。
   青年はただその半ばを示すのみ。
   神に委ねよ。全てを見よ。しかして恐れるな!」と。

(邦訳はブログ「メメント ド ミニ」より引用)

“Grow old along with me ! The best is yet to be,”: メメント ド ミニ

 

「老いゆけよ、我と共に!最善は常に未来にあり。」という最初の言葉は印象的だ。来月、というより3日後に結婚する僕に対しての啓示ようであり、また、そのまま伴侶となるべき彼女に僕から言うべき言葉のようにも感じるからだ。

 

結婚する二人は、共に相方との死別を経ての再婚である。これまでに幸せな時も辛い時も過ごしてきた。過去の幸せを認め合い、お互いに大切にして、二人でより一層の幸せを積み重ねていこうと誓った。そんな僕たちに「人生最良の時はこれから」という詩人の言葉は、有り難くも厳かに響く。そしてそれに続く「人生の最後、そのために最初も造られたのだ。」とは、生きる喜びを味わう為に命を与えられたのだ、と教えてくれているように思う。「人生の最後(死)」は「最初(誕生)」にもれなく付いている。そんな既に決まっていることなどは恐れずに、今を生きなさい。思うがままに挑戦して成長できる今がいつでも一番。そして明日はもっと良い日になると信じて、と。

還暦過ぎて心ときめく恋をして、結婚してくれる相手に恵まれた。恋に年齢など関係ないとは言え、やはり出会いに、そして何より彼女に深く感謝している。いよいよ結婚となって部屋を整理したときに出会ったブラウニングの言葉は、僕の幸せを願ってくれているであろう天にいる妻が書き留めてくれていた。これはまさに天からの贈り物。妻の遺してくれた僕たちへの花向けの言葉ではないか、と勝手に想像して、感謝している。

 

ロバート・ブラウニング(Robert Browning)は、19世紀イギリス詩人。代表作には劇詩ピッパが通る Pippa Passes」(1841年)が挙げられ、「特にその一節 "God's in his heaven. All's right with the world." (神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し)が広く知られる。」(ウイキペディア)

"Grow along with me ..."という詩人の言葉に人生の意味を感じた人のひとりにジョン・レノン (John Lennon) がいる。彼の妻オノ・

ヨーコによれば、最後のアルバムとなったダブル・ファンタジー(Double Fantasy) の次のアルバムに、ジョンはそのインスピレーションを曲にして収めようとしていた。彼が、結婚式の定番にと願った曲 "Grow old with me" には、上記したブラウニングの詩 "Rabbi Ben Ezra" の最初の2行が引用されている。残念ながら彼はニューヨークで凶弾に倒れて、彼の手による作品はカセットテープに録音された習作のみのようだが、ビートルズで彼の仲間だったリンゴ・スターが、2019年10月にカバーして歌ったものはYouTubeでも聴くことができる。

 

 

youtu.be

昨日の自分を越える - Beat yesterday!

ランニング・コーチの新澤英典さん(55歳)は、10年前から毎年1回は自己ベストを更新しようと試行錯誤を続けて、17年連続自己ベストを更新した。自身のブログで「『これ以上のタイムを出すことは難しい』と感じるタイムは一つもない」と言い切る。

fun-run.toky

新澤さんの自己ベストは、タイムだけでなく距離もカウントしているので、その方式を当てはめれば、自分もレースに参加して以来6年、今年も1月の「ハイテク・ハーフ」で自己ベスト出したので、暦年ベースでは7年連続(16-22年)で、自己ベストを更新してきたことになる。

実はフルマラソンのタイムを縮めたのは2020年と、初マラソンから4年もかかった。最初はより長い距離を走る方に夢中になったからかもしれないし、初マラソンでいきなり4時間切り(サブ4)とスタートが良過ぎたからかもしれない。17年〜19年の間はウルトラマラソンで、79km(17年奥武蔵ウルトラ)、252km(18年川の道ハーフ)、514km(19年川の道フル)と距離を伸ばした。20年1月の勝田マラソンで4年ぶりに自己ベストを更新し、昨年(21年)10月の金沢でも自己ベスト更新の上、目標だったボストンマラソン参加標準記録(Boston Qualify)をクリアした。

経験もなく、クラブにもコーチにもつかずに、興味に任せてレースを渡り歩いた結果が「7年連続」自己ベスト更新に偶然なったわけだが、フルマラソンは3時間30分(サブ3.5)を狙えると思っているし、ウルトラマラソンもそれぞれのレースをもっと上手く走ればタイムは良くなる「伸び代」は随分あると確信している。

昨年還暦を迎えたが、医学的にも65歳までは19歳と同じ走力が維持されるらしいので、まだまだ年齢を意識せずに、無邪気に自己ベストを目指していきたい。

挑戦で自分自身が見えてくる - Challenges teach you about yourself

会社の管理職試験受験者に対する、模擬試験に付き合った。「会社をどうしたいか?」「どのような管理職になりたいか?」などのお定まりの質問に対する回答の中に、挑戦する風土を目指したいというものがあり、では挑戦って何だろうという話になった。

挑戦、戦いに挑む。言葉通りの意味は、第一に武力に訴えることであり、第二に目標や困難に立ち向かうことである。多くはチャレンジ精神に代表される第二の意味で使われるし、受験者である彼もその意味で言っていた。

困難に挑むことを是とするからには、その先に成果や達成感など相応の意味や価値がなくてはならないし、また仮に成功しなかったとしても、挑んだことそのものを評価して、結果にはある程度目を瞑る組織的な合意が必要だ。

組織はそうなのだが、個人としてはどうか?

失敗するリスクを乗り越えて挑戦するからには、対象あるいは目標が十分に難しく、時間と金をかける価値があると感じなければならない。それは相当の金銭的見返りや栄誉があればわかりやすいが、そうでなくても「そうせずにはいられない」原動力が自分の中にあるかどうかに掛かっている。つまり端的には、理由はわからないかもしれないが、とにかくどうしてもやりたいこと、好きなこと、こそが挑戦の対象であるべきである。

挑戦には時間と金をかけると上述したが、いずれも限られた資源であり、他の用途を犠牲にして挑む訳であるから、単なるその時の気まぐれではなく、コミットメントとも言える継続的努力が必要だ。気分が乗っている時も乗らない時も、晴れた日も雨の日も、暑くても寒くても、(程度問題ではあるが)体調がすぐれない時でさえ、継続する。それほど好きなことにこそ挑戦する意味がある。

逆にいうと、単にお金や名誉のための挑戦は、成功すればそれなりに達成感はあるとしても、虚しい。そんな挑戦を買って出ると、それが困難なものであればあるほど、失敗したらどうしようという不安が先に立って集中できなくなる。

僕の経験で言えば、30代のMBA挑戦は後者だった。ニューヨーク駐在から帰国し、グローバルな舞台で丁々発止の活躍を夢見たが、そこまでできる経験も自信も無かった。自分で勝手に作り上げた「駐在経験者への期待」に応える自分となるためには、MBAで箔をつけるしかないと受験を決意した。ハーバードなど米国名門校には蹴られたが、幸いにも欧州の雄ロンドンビジネススクールに合格した。しかし当時会社にはMBA留学制度は無かったので、休職しての留学を申請したが受け入れられず。会社を辞めて留学するつもりで親に支援を頼んで、準備は整ったが、万が一卒業できなかったらどうしよう、などの不安が先立って、結局断念した。グローバルに活躍してカッコよく高給取りになりたい、という甘い動機では、不安を乗り越えて挑戦するだけの原動力たり得なかった。

一方で500km以上走る本州横断「川の道フットレース」への挑戦は、不安は数知れずあったが、それらを乗り越えるだけのモチベーションがあり、とにかく成功するために何をなすべきかに集中して挑むことができた。与えられた一年という時間の中で、自分で考えうる全ての事の中からやる事とやらない事とを決めて実行し、レース本番に臨んだ。結果が吉と出ても凶と出ても、全力で挑んだ結果として受け入れる覚悟ができていた。失敗したとしても「これが掛け値なしの自分だ!」と言い切れた。

愛読書"Golf Is Not a Game of Perfect“(邦題「私が変わればゴルフが変わる」)で著者のボブ・ロテラは、ゴルフは挑戦する喜び、コミットメント感覚を味わう幸せ、を与えてくれるとした上で次のように続ける:

In the end, you will realize that you love golf because of what it teaches you about yourself.

最後にあなたは、あなたがゴルフを愛してやまないのは、ゴルフがあなた自身について教えてくれるからだと気付くことだろう。

好きなこと、やらずにはおれないことに挑戦し続けることこそが、人生であり、それは自分自身を発見する旅である。そんな気付きのあった一日だった。

今を生きる、だけ - Simply Do Nothing, But Seize The Day

新しい年を迎えて、元旦は昨日と変わらぬ同じ一日だとわかっていてもなんとなく新鮮で、かつ厳粛な、気持ちになった。いつものことだが、一日一日を集中して精一杯生きようと考えているとふと、心に浮かんだ言葉がある。

 

Carpe Diem(カルペ・ディエム、今を生きる)

 

その言葉は、かれこれ10年以上前にドイツに出張した時初めて、訪問先で出された飲み物の商品名として知った。そのラテン語 "Carpe Diem" は直訳すると「今日を摘め」だが、それでは直ちに意味が掴めない。瓶のラベルに和弓の的(まと)が描かれた "Kombucha (昆布茶)" なので、禅など東洋哲学に通じる何か深い意味があるのかと想像した。提供したドイツ人に聞いても、(英語で)上手く説明できず、あーだこーだと、ビジネス本題前のある意味で良い前座話になった。

 

調べてみると古代ローマ詩人ホラーティウスの詩が原典だった。今日咲いた目の前の花を摘め、明日のことを思い煩うな、今ベストを尽くせ、といった意味のように思う。

 

「神々がどんな死を僕や君にお与えになるのか、…そんなことを尋ねてはいけない…
今日一日の花を摘みとることだ。(Carpe Diem)
明日が来るなんて、ちっともあてにはできないのだから。(ホラーティウス)」

 

例年ならもっと具体的に「今年の目標」を設定したりもするが、ぼんやりと「今に集中」だけを心に刻むことにした。新しい年・新しい生活をこれまでの延長線上ではなく、新鮮に気持ちよく過ごしたいと思ったからだ。

偶然にも今週受信したニューズレター "Dense Discovery"でも発信者の Kai が似たようなことを言っていた。多くの人は年頭に今年の目標を立てて頑張るけれど、少なくとも自分の経験では、その方法はストレスレベルを上げてフラストレーションを感じるうちに終わる。今の自分は全く違う考え方をするに至ったとして、次のように述べる。

「Jenny Odellと彼女の著書 "How To Do Nothing" のために実施した調査は、生産性についてのより深みのある解釈を気づかせてくれた。従来の生産性についての見方は、単に新しい物が生み出されるべきであるというだけの理由で、何がなんでも新しいモノを生み出すんだという概念に取り憑かれていた。それは明らかに新しいモノに価値を見出す資本主義者の価値観から来ていて、そのモノサシに従えば(現状維持のための)手入れや見護り、休息、遊びは時間の無駄とされてしまう。しかしもしあなたが私のように、綿密な計画や進捗管理を「いつまでもひたすら改善を繰り返す開発中ソフトウエア」の様で嫌だと感じていたら、Andrea Mingnoloが提唱するより人間味ある内向的な方法がある。一年先を計画する代わりに、1年前をじっくり振り返る方法だ。自分をより元気づけ、気持ちを高め、楽しませるにはどうすれば良かったのか、見直すのである。つまり、(新しいことは)何もしなくてもいい。ひたすら快適な混沌の上を飛んでいる感覚で過ごす。なぜならあなたは誰に対しても生産性に関する負い目はないのだから。」

www.densediscovery.com

これもまた偶然だが、元陸上オリンピック選手の為末大さんも今週のブログに次の様に書いている。

 

「私は日本社会が良くなるためには

・我慢しない
・リスクを取る
・好奇心を伸ばす

の3つが重要だと考えています。…

…好奇心を元に違う世界に接触する→自分が何を抑圧していて何に抑圧されているかがわかる→抑圧から放たれ思い切って違うことをやってみる→抑圧感がなくなり他人を抑圧しようという気分ではなくなる→社会全体が豊かになるかはわからないけれど個人の幸福感は高まる、です。」

note.com

 

我慢せずに自分の心に従って、「今を生きる」ことに徹した一年にしていきたい。

 

(追伸) “Carpe Diem” の英訳 “Seize The Day”を調べていたら本稿と同じ題名の米国映画(1989)があることを知った。規律に縛られた名門校の生徒たちの心を解き放ち、自由に生きる素晴らしさを教えた教師のストーリーのようだ。ちょうどニューヨーク駐在時の公開で、現地で観た気もするが、「今を生きる(邦題)」(字幕付😄)をまた観てみたい気がした。

honkienglish.com

バトンを繋ぐクリスマス - The Queen's Christmas message

クリスマスも終わり、街の装いがお正月一色になってきた。新年を1日だけ祝って、二日目から仕事という海外では、多くの街でクリスマスのデコレーションは残る…というより、キリスト教行事としては東方3博士がベツレヘムでキリスト誕生を確認した日である1月6日の公現祭(エピファニー)までが、キリスト誕生を祝うクリスマス・シーズンだからということだろう。ドイツでは、クリスマス・ツリーに本物のモミの木を使うことが多いが、そもそも1月6日を越えないと用済みのツリーを清掃サービスが引き取ってくれない。クリスマスの始まりはといえば、クリスマスイブの約4週間前の日曜日(待降節アドベント)ということになっていて、有名なクリスマスマーケットが街の広場に現れる。

アドベントからエピファニーまでの約6週間が「シーズン」でその間にクリスマスキャロルを歌い、キリスト生誕の物語を観る。家族が集まり、プレゼントを交換して、伝統的な食事をして、共通の文化や価値を温める。北半球は寒い冬で一年で日照時間の少ない時期。冷え込む人々の心が慰めを求めている季節でもある。大昔からの人類の知恵かな、とも思う。

 

12月26日に英国のエリザベス女王が、恒例のクリスマスメッセージを発信したが、今年4月に亡くなった夫のエディンバラ公を追悼しつつ、大切な人を亡くした家族にもクリスマスの歓びはある、という内容に共感した。

愛する人を人を失った人間にとって、クリスマスはつらい時にもなり得ます。それがどうしてなのか、今年の私は特によく分かります」

「私も家族も、夫がいなくてとても寂しいですが、私達の思いと同じくらい彼は、私たちにクリスマスを楽しんでほしいと、思うはずです」

イエス・キリストの生誕を祝う聖歌「ああベツレヘムよ」の歌詞にある「積年の希望と恐れはすべて今宵 あなたの中に集う」という部分を女王が引用し、「どうぞ皆さん、とても楽しいをクリスマスをお過ごしください」と祝った。

エディンバラ公環境保護に関する行動を長男チャールズ皇太子とその長男ウィリアム王子が継承していることに触れ、「未来にバトンを繋ぐ」大切さも語っていた。(キリストの)誕生を祝うというクリスマス行事は、次の世代を祝い、大切にしている価値観を伝える役割を果たしているのだと感心した。

日本も昔は数え年で、皆が元旦に年を取ることになっていた。家族が集まって、伝統を共有して、誕生を祝う習慣が、洋の東西を問わずあることの不思議さも感じる。

深い宗教的な知識もなく、クリスマスキャロルは好きでよく聞いていた。サンタさんからのプレゼントを楽しみにしていた子どもの頃、楽しげなカップル達を横目に男友達と騒いだ学生時代、出会い、別れ、そしてまた出会い。年によって悲喜こもごもあるものの、「積年の希望と恐れはすべて今宵 あなたの中に集う」クリスマス。今年は一段と深く味わえた気がしている。

www.bbc.com

独白と対話と - Monologue and Dialogue

ブロガーという言葉が定着して10年以上経つだろうか?インターネットの普及とともにブログというメディアを通して個人の意見・発見・アイデアを公開する人が増えて、誰が言い始めたのかブログを書く人をブロガーと呼ぶようになった。

新聞・雑誌と違って、「大衆受け」ばかりを狙わないので、例えばプロ野球千葉ロッテマリーンズを応援するブロガーがいて、大新聞には無視されがちなマリーンズの試合を毎試合アップしてくれる。ブログを書くくらいだからマリーンズの選手、過去の試合、ライバルチームの動向にも詳しくて、読んでいて面白い。無論マイナーな話題とは言えブロガーは何人もいて、「ブログ村」などにランキングされている。同じ試合のレポートにしても、観点が違う。感情に任せて書いているものは時に面白いこともあるが、ある程度客観的な根拠を示しながら持論を述べるタイプの方が僕には読みやすい。好きなことを綴るブログとはいえ、そこまで来ると記録を調べたり自分なりのデータベースを整えたりと、プロの解説者並みになってくるのだろう。むしろプロ野球現役時代の実績だけを看板にしている解説者よりも、はるかに分析が鋭いと思うこともしばしばだ。たまに試合を球場に行って観ていると、ブロガー同士が挨拶して楽しそうに話をしている場面に出くわす。インターネット時代の人と人との繋がり方だな、と感じる。

最近では映像による配信者、ユーチューバー、も出現した。こちらはゴルフ、料理など自分でやっている動画を撮って説明や感想を付けるものが多い。ユーチューバー・ランナー同士がマラソン大会で挨拶を交わしているのも、野球場でのブロガー同様に今風の光景だ。

最近聴き始めたYoutubeライブ配信 "Radio Dialogue"で、今週(12/15)ゲストとして登場した映画監督の是枝裕和が、面白いことを言っていた。

「僕は最近講演依頼は断ることにしている。しかしこのような対談には喜んで出ている。講演は自分の考えを述べるだけだが、対談は相手に刺激を受けて発展性がある。モノローグよりダイアログを大切に思うようになった。」

ブロガーもユーチューバーも普段は自分の考えを発信しているという意味でモノローグの連続だ。それは自分の考えをまとめたり、深めたりすることには良いし、発展もする。しかし新しい見方・考え方に出会うのは、圧倒的にダイアログだろう。ブロガーやユーチューバー同士の挨拶はダイアログとしての意味もあったのか、と思う。

最近ではAIによって、音楽を聴くにも映像を観るにも、そしてAmazonで買い物するにしても、スマホが自分の好みを先読みして提案してくる。便利になった反面、驚くような出会いが無くなった。本屋を覗いてみる、街を歩いて店をひやかす、はたまた旅に出るなどの効用は、自分にない、考えもつかない意外性との出会いだ。モノローグからダイアログへ、便利さに安住しないで外に出る。ともすれば易きに流れてしまう日常の中で、意識しなくては、とあらためて考えた。

「脱」が大切 - Importance of "De-" something

SIGMA fp というカメラを買った。

SIGMAデジタルカメラ、交換レンズ、各種アクセサリーの製造・販売を行うメーカー。1961年の創業からずっと写真・映像に関する製品だけを作りつづけている。写真や映像を撮る瞬間は必ず何らかの特別な瞬間であり、その多くは人々の幸せと結びついていると考え、その特別な、その時、その瞬間に選ばれる道具であるために、誰も見たことのない革新的な製品とサービスを、誰も並び付かない高い品質で、世界中どこでも楽しめることを目指している。

fpは、そんなSIGMAがこれまでビジネスの柱としてきた考え方・開発方針をゼロにして、ユーザーの思いに寄り添って「脱」構築 - "De-"construction したカメラである。上記のような熱い「メーカー魂」とも言えるミッションに惚れ込んだSIGMA愛好家をも、いい意味で無視して、新しいコンセプトのカメラを世に問うた。撮り手にとって本当に必要なものはなにか。必要を満たすだけでなく、それがあることで生活そのものがもっと豊かで面白いものになる、そんなカメラを追求していたら撮ることの真ん中だけを凝縮したモノになった。すなわち世界最小最軽量一眼レフカメラにして、フルサイズ。レンズ・アクセサリーによる変幻自在の拡張性。そして静止画・動画を瞬時に切り替える機能性を持つ。真ん中しかないということは、 どんな方向にも広げられる可能性があるということ。 それが、脱構築の先に行きついたfp。他のSIGMA製品同様に、部品一つ一つに至るまで 自社の会津工場で作られている。

本格的に写真に取り組もうと思った時に出会ったカメラが、有名ブランドのキャノンでもニコンでもなく、同い年に生まれた会社の"Made in Japan"であることにある種の誇りを感じつつ、これから存分に写真を楽しみたいと思っている。

政治経済に目を向けると、「脱」成長 - "De-"growth というコンセプトに改めて脚光があたりつつある。一般的に多くの政治リーダーは経済成長を最優先課題に挙げがちだが、脱成長はそのアンチテーゼ。政治家はもちろん嫌うが国民ウケも悪い、反消費主義、反資本主義の思想に基づく運動だ。古くは70年代の「成長の限界(ローマクラブが地球と資源の有限性に着目し、人口増加と環境汚染がこのまま続けば100年以内に成長の限界に達するとした)」、「くたばれGNP(朝日新聞の特集記事。豊かさをGNPで測れるのか、疑問を呈した)」に遡るが、概念としては、消費を減らすことが必ずしも個人の犠牲や人生の充実の悪化を意味しないということである。家族、自然、文化・芸術、コミュニティーへ費やす時間を増やす中で、消費を減らしても心の豊かさや人生の充実、ひいては幸せを最大化できるという考え方だ。

コロナ禍でさまざまな制限を受け、これから人類は「日常」を取り戻しにかかっている。しかしながらそこで「会いたい人に会い、行きたいところへ行く」という日常が、コロナ以前と全く同じ姿で戻ってくるわけではないし、戻してはいけない。リモートで済むものはリモートで。本当に必要な時だけリアルに行き、会う。行く時も車は使わず、公共交通機関または自転車か、歩き。たとえばそのようにして乗り物に乗る機会を減らし、エネルギー消費を減らす。コロナによって2020年の石油消費量は前年比9%削減されたそうだが、これをあらためて成長軌道に戻すのではなく、我慢するのでもなく、知恵と技術と連帯で乗り越えることが、我々に課せられた命題なのだと思う。