花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

がんばろうBOSTON - Boston Strong

第126回ボストンマラソンへの参加申込が、審査の結果正式に受理された、とのメールがようやく届いた。事前に今年は足切り無しとは聞いていたものの、晴れてスタートラインに立てると思うと嬉しいものだ。新型コロナの感染状況は新たな変異株(オミクロン株)が俄に拡大して、不透明感が増しているが、バイデン大統領が言うように「Science & Speed」で対処してもらうことを期待して、自分のできる準備を進めていこうと思う。

コロナ禍という異常事態になってからおよそ2年が経とうとしている。かつての生活全てが戻るわけではないとしても、会いたい人に会い、行きたいところに行ける「日常」を早く取り戻す鍵は、実際のところ社会を構成する我々一人ひとりの意識や行動にかかっているように思う。

 

1995年1月17日、阪神・淡路大震災で神戸の街は崩壊したが、被災者は悲しみを乗り越え復興のために前向きに生きた。震災後、練習もままならなかった地元球団オリックス・ブルーウェーブは「がんばろうKOBE」の合言葉をユニフォームの右袖に付けて、神戸での開幕戦に踏み切る。オリックスの宮内オーナーは当時を振り返って次のように述べている。

地震の直後、球団では、神戸以外の地方球場で興行する話が出ていた。こんな惨状で野球を見にくる人はいない、今シーズン神戸で野球をするのは夢物語だ、ということだった。私は反対した。「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」と。そうしたら、全員が市民と一緒に復興しようという気に変わっていった。開幕試合には三万人もの方が見に来られ、逆に選手たちを感動させた。がんばろうKOBEに魂が入った。」

神戸にとどまり、市民とともに戦おうというチームと、そんなチームを応援する神戸市民。その開幕戦で勝利を飾ったブルーウェーブはその後も快進撃を続けて見事「リーグ優勝」に輝いた。日本一こそ逃したが、それは「がんばろうKOBE」という合言葉を胸に、チームとファンや市民が一丸となった結果である。

2013年4月15日、第117回ボストンマラソンは爆破テロに襲われ、300人を越える死傷者が出た。事件後最初に行われた地元球団ボストン・レッドソックスの試合では、悲劇から立ち上がるスローガン"Boston Strong" がフェンウェイパーク球場のバックスクリーン「グリーンモンスター」に掲げられ、選手も"B Strong "のロゴ・パッチをユニフォームに付けてシーズン通して戦った。前年最下位だったレッドソックスだが、John Farrell 新監督の下、奮起してリーグ優勝、そしてワールドチャンピオンにまで駆け上がった。こちらも事件から立ち直ろうとする市民の応援がチームの団結となって大きく影響したと言われている。

 

1995年の「がんばろうKOBE」、2013年の"Boston Strong "。いずれも市民の力に後押しされて、野球という小さな世界の出来事だが、奇跡が起こった。また同時に地元チームの活躍が市民を元気づけ、スポーツの力を強く感じさせた。コロナ禍により2年連続で「愛国者の日(Patriots' Day)」に開催できなかったボストンマラソン。2022年は伝統の4月第3月曜日に復活させて「日常」を取り戻す象徴としたい。関係者の努力だけで打ち勝つことができるほどパンデミックは柔(やわ)ではない。それでもスポーツの力をここでも示せるように、そしてその一員として自分も微力ながら貢献できるように、願ってやまない。

がんばろうBOSTON!

 

ハレルヤ - Hallelujah

11月も後半になるとクリスマス飾りが目に付き始める。近所の2軒の家が、毎年競い合うようにイルミネーションを飾って、夜はチカチカと賑やかだ。僕が入居しているマンションも入口にクリスマス・ツリー、中庭をイルミネーションで、こちらは地味ながらも季節感を出している。

 

So this is Christmas, what have you done?

さてクリスマスになった。今年は何をしたのかな?

(Happy Xmas, John&Yoko)

 

なんてクリスマス・ソングにハッとさせられて、ちょっと焦るのもこの季節。多様性を前提とする現代社会において、キリスト教のお祭りだけを殊更に言うのは「正しく」ないので、公的には「メリー・クリスマス」と言わずに「季節の挨拶 (Season's Greetings)」ということになってはいるが、クリスマス・ソングには元気や癒し、感謝心を感じるものが多い。

きよしこの夜」「サンタが街にやって来る」など伝統的なクリスマス・ソングに比べると比較的新しいが、ハレルヤ(Hallelujah)がお気に入りのひとつだ。ハレルヤ・コーラスは神を祝福する、どちらかというと派手な歌だが、レナード・コーエン(Leonard Cohen)作詞作曲のハレルヤは、静かに語るような曲だ。ギターの弾き語りで、いやせめてカラオケでも歌いたいと思うのだが、英語の歌詞の読みも意味も難しくてまだできない。

1984年に発表されたこの曲は、コーエンによれば「宗教曲ではない」のだが、カナダの名門マッギル大学で神学を修めたユダヤ系の彼が5年もかけて書いた詩には、旧約聖書の物語を背景とした言葉も多く、直訳では解りにくいし、意訳も難しい。聞けば全部で80節もあるそうで、「まず歌詞の第1節では、ダビデが初代イスラエル王サウルに竪琴を弾いたという旧約聖書『サムエル記』の逸話が語られ、ついでダビデが月明かりのもと沐浴するバトシェバを誘惑する逸話、さらに『士師記』のサムソンの髪をデリラが切り落とす逸話が語られる、といった具合で、ヴァースごとに『ハレルヤ』の文言が繰り返される」歌詞である。

歌詞の真意はさておき、コーエンが歌ったオリジナル版は残念ながらそれほど売れなかった。しかしボブ・ディランをはじめとして多くの歌手がカバーし、またシュレックなど映画にも使われて徐々に広まり、今では定番の一つとなり、クリスマスシーズンには毎年聴かれるようになった。

思い出すのは2013年4月20日ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パーク球場。埋め尽くす35千人のファンは、大型モニターに映し出される写真を見ながら、ジェフ・バックリー (Jeff Buckley) が歌うハレルヤを聴き、涙した。 写真はその5日前(4/15)の第117回ボストン・マラソンのシーンだった。忘れもしない爆破テロ事件のものだ。3名の命が奪われ282名が負傷した。(後日の犯人逮捕時含めた死傷者は304人にのぼる。)

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もともとは「神に栄光を」という意味のヘブライ語である「ハレルヤ」。輝かしい喜びや祝いの言葉であるとともに、苦しい時の励ましや癒し、深い感謝の言葉でもある。曲の最後に出てくる「冷たく壊れたハレルヤ(a cold and broken Hallelujah)」は辛い時でも呟けば救われる言葉のようにも感じられる。だからいろいろな場面で多くの人が歌う歌なのかもしれない。

 

レナード・コーエンは2016年11月7日に82歳で亡くなった。僕が初マラソン出場に向けて仕上げの4週間に入った頃だ。そして今、ボストン・マラソンへの準備をしながら、8年前にボストン市民を励ましたハレルヤを特別な感慨を持って聴いている。沢山のカバーがある中で、オペラ歌手ボッチェリが彼の娘と一緒に歌うハレルヤで、今年のクリスマスを迎えたい気分だ。

 

君は一人じゃない - You’ll Never Walk Alone

"alone" を巡る雑感、第2弾(^^)…

 

昨年あれよあれよという間に世界中に広がった新型コロナウィルス、COVID-19。ロックダウンして閑散とした街中に流れる "You'll Never Walk Alone"と、それを家で聴き口ずさむ人々の ニュースを観て、自然と涙したことを思い出した。2020年3月20日午前7:45(英国時間)、BBCをはじめとするヨーロッパ諸国のラジオ局が一斉にオンエアしたのだった。

 

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When you walk through a storm
君が嵐の中を歩くとき

Hold your head up high
顔をしっかりと上げるんだ

And don't be afraid of the dark
決して暗闇を恐れないで

 

At the end of the storm
嵐の向こうには

Is a golden sky
黄金色の空がある

And the sweet silver song of a lark
雲雀が甘い銀色の歌を美しくさえずっている

 

Walk on through the wind
歩き続けよう 風の中を

Walk on through the rain
歩き続けよう 雨に濡れても

Though your dreams be tossed and blown
君の夢が投げ飛ばされ、吹き飛ばされても

 

Walk on walk on
歩き続けよう 歩き続けるんだ

With hope in your heart
希望を胸に

And you'll never walk alone
そして君は決してひとりで歩いていくんじゃない

You'll never walk alone
君はこれから決して一人じゃないんだ

 

もともと1945年にミュージカル「回転木馬(Carousel)」で歌われたこの歌は、後にGerry & the Pacemakers' がカバーして、1963年英国ヒットチャートでNo.1になった。サッカーのリバプールFCや東京FCの応援歌としても有名だ。リバプールFCファンは曲名の頭文字を取って "YNWA" と略記し、東京FCファンは「ユルネバ」と呼んで愛唱してるらしい。

 

思い起こせば米国が悲しみに沈んだ2001年の9.11の時もバーバラ・ストライザンドがエミー賞授賞式で歌い、東日本大震災の直後にリバプールFCから届いた励ましのメッセージの最後に "YNWA" とあった。ここでも "alone" は、未来意思の助動詞 "will" と強い否定の "never" との組み合わせによって、「これから先、絶対に一人じゃない」という力強いメッセージになる。

「二度と寂しくなんかさせないよ。」

「遠くにいても、あなたのことを想っているよ。」

「離れていても一人じゃないよ。」

 

一人でこの世に生まれ来て、去るときもまた一人。人生時には思い通り行かず、絶望してこの世の終わりと思ってしまうこともある。しかし地上にいる間は、すなわち生きている間は、「一人じゃない」という連帯の言葉(歌)が、人々の心に希望と勇気の火を灯す。

 

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二人で一緒に - We’re all alone

前回のブログ記事題名、「まるで新たな始まり - Just Like Starting Over 」はもちろんジョン・レノン(John Lennon) のヒット曲 "(Just Like ) Starting Over" にあやかったものだが、この曲はビートルズ解散後しばらく音楽活動を休止していたジョンが、妻のヨーコと二人で一緒にまた音楽を始めようという再出発の歌だ。歌の途中サビの部分に次のようなラインがある:

 

Why don’t we take off alone

Take a trip somewhere far, far away

We’ll be together, all alone again

 

二人で一緒に飛び発とう

もっと遥か遠くのどこかへ旅に出よう

僕たちは一緒になって、もう一度二人だけで

 

今回取り上げたいのは、ここに二回も出てくる "alone" という言葉。単語として「単独で」「独力で」「隔離されて」という意味なので、主語が単数だと「一人だけ」となって、人によってはなんとなく淋しく感じてしまう。しかしジョンの歌詞は、複数形の 「私たち “we" 」が主語なので、「二人きり」「一緒に」というむしろ「一人じゃない」ことが強調される。

 

それで思い出されるのは、ボズ・スキャッグス(Bozz Scaggs)の1976年リリース曲 "We're all alone" だが、邦題は「二人だけ」だった。翌年、リタ・クーリッジ (Rita Coolidge) がカバーしてボズより売れたが、日本でシングル・レコード(昭和の遺物⁈)発売時の邦題は「みんなひとりぼっち」になっていた。

邦題を決めた人は alone という言葉に引っ張られて、「単独 」→ 「ひとりぼっち」、と想像してしまったのかもしれない。主語がWeであることに気づかずに。

 

曲のサビはこんな感じ:

 

Close the window, Calm the light

And it will be all right

No need to bother now,

Let it out, let it all begin

All's forgotten now

We're all alone, all alone

 


窓を閉じて、灯りを落として

もう大丈夫

悩むことは何も無い

全てを捨て、新たに始めよう

全てをもう忘れて

僕たち二人きり、一緒だよ

 

僕も当時は気にかけなかったが、しかし最後のラインは文脈的に「みんなひとりぼっち」では、いかにもおかしい。これから二人一緒に生きていこうという流れと真逆だ。ヒット曲の題名だけに、なんとも痛い。

 

繰り返しになるが、英語的には"alone"は他から隔離されて独立した状態を示す中立的な形容詞で、本当は淋しくも悲しくもない。ひとりぼっちで淋しい時は、"lonely"と表現する。

ジェイソン・ムラーズ (Jason Muraz) が、"Unlonely "という歌を作った。この言葉は文法的に正しくはないが、意味はわかる。

 

I could make you unlonely

僕は、君に寂しい思いをさせないよ

 

「二人だけ」の愛の歌より、「寂しくさせない」と誓う方が、愛は伝わる気もする…なんてね(^^)

 

"alone" を巡るとりとめもない雑感でした。

 

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まるで新たな始まり - Just Like Starting Over

10月31日は金沢マラソンに参加した。

ゲストに野口みずき。エイドには金沢銘菓が並ぶ、参加者10,000人の大規模レースだ。コロナ対策の緊急事態宣言が解除されて、2年ぶりの開催に漕ぎ着けた。

僕個人としてもフルマラソンは2020年1月の勝田マラソン以来、ほぼ2年ぶりのレースとなる。その当時コロナはまだ中国武漢のローカルニュースといった印象だった。うっかり電車に乗り遅れ、開始直前にギリギリ到着してのスタートになってしまった。それがかえって良かったのか、無欲に黙々と走れて、初マラソンの記録を初めて破り自己ベスト更新となった。

今回は、ボストンマラソン参加基準(BQ)の3時間50分をクリアすべく、3時間45分に目標設定した。最初の12kmまでは上り基調なので、そこまでは慎重にキロ5分20秒から30秒のペースで行き、その先は35キロまで様子を見ながら最速キロ5分0秒まで上げていく。35km越えたら「なるようになれ」と全力で頑張る作戦だ。

そしていよいよスタート。最初こそスローだったが、慎重な出だしをと思いつつも、そこはレース、周囲のランナーに釣られてペースが上がる。「無理しない、無理しない」と言い聞かせながら、12km付近のコース最高地点(68m)を過ぎた。ここからは下り基調なので、気持ちよく、時々手元でオーバーペースにならないように確認しながら進む。

心配してたことの一つは、エイド。1分2分を争うフルマラソンでは、水などの提供物を奪い合うように取っていくランナーが多い。金沢の様に大規模レースならなおさらだ。そんな争いで足踏まれても良い様に、いつものワラーチやめてシューズで臨んだほど警戒していた。しかしマナーが向上したのか、エントリー数を減らしたからか、思いの外スムーズで、ぶつかることもなく、上手く抜けられた。

もう一つの心配は足攣り。これまで二回、17年の勝田、18年の京都で攣った経験から、ミネラル補填ゼリーを朝摂った。普段から夜20時から翌日正午までは食事を取らない所謂「8-16ダイエット」継続中なので、レース当時でも朝食は取らない。脂肪燃焼体質になった自分を信じてあえてレース前に胃の負担になることは避けたが、ミネラルだけは例外。それが功を奏したのか、攣らずに済んだ。

こうなればあとは持久力勝負。案の定30km過ぎてスピードが鈍った。それでも筋肉使って頑張ることなく、リズム良く走ることを心がけた。脚はミゾオチから生えているイメージで、背筋伸ばして、着地した瞬間に足を上げる。上げるというより、むしろジャンプする様に飛ぶ感覚を意識した。キロ5分10秒ペースには戻らなかったが、30-40秒で踏み止まり、なんとか3時間42分25秒(ネット)でBQをクリアした。後半タイムを上げる、いわゆるネガティヴ・スプリットの走りが出来れば、3時間30分切りも夢ではないが、それにはスピード練習が不足している(そもそもやってない)。

なんとか目標を達成して、満足できる大会となった。初マラソンの「さの」から5年、いきなりサブ4達成できて、すぐにもBQクリアかと期待したが、一進一退を繰り返した。力抜いて走った20年の勝田で、マラソンもメンタル要素大きいんだと気付き、今回は練習不足は否めない中で、目標を絞って、その為の具体策に集中して成果につながった。

もちろん直前の意識の持ち方だけでなく、ここ1年ほど続けていた走りの積み重ねが、ジワッと効いたのだと感じる。既に上記したように、一つは顎を若干上げ気味で背筋を伸ばす姿勢、二つ目はミゾオチから脚が生えている意識、三つ目がジャンプする様な足捌きだ。

そして最後に最も大切なことは「一人ではない」意識。マラソンは個人スポーツの代表みたいなものだが、走っている時は一人でも、決して一人で走れているわけではない。今回は大会のサービスとして36km地点で撮影した映像をインターネット配信する他、応援メッセージを電光掲示板に表示してくれた。タイミングが合えば映像を見て声援を送る「離れ業」が可能だ。大切な人に元気に走っている姿を見せたいというだけで、勇気100倍、元気が出る。残念ながら、実際にもらったメッセージをリアルタイムに確認できなかったが、他の人のメッセージで偶然「あなたは一人じゃない」という言葉が目に入って、目頭が熱くなった。

主催者・関係者・ボランティアはもとより、多くの人達の協力があっての大会。記録もさることながら、自分のやって来たことへの確信と、大切な人の思いを心に刻むレースになった。それはまるで、新たな始まり、のように晴れやかでみずみずしい感覚だった。

 

私がついてるから - I will be there

グルジア出身のイギリスのシンガーソングライター、ケイティ・メルア (Katie Melua) の曲、 "I will be there" は、「究極の愛の表現ではないか」と真剣に思っている。

 

人にとって最も貴重な財産は時間だから、他でもない自分の命の時間を優先的に使う対象は、その人にとって最も愛しい人・モノであるはずだ。

"I will be there" または省略形の "I'll be there" は、「そこにいるよ」「あなたを待ってるよ」みたいな意味で、待ち合わせの約束の時に使われるが、文脈によっては「(そこで会うまで)さようなら」の意味にもなる。ケイティ・メルアの歌詞では、「あなたの行くところに必ず私もいる」というコミットのように感じる。どこに居ようと「私がついてるから」大丈夫。淋しいなんて思わずに冒険を楽しんでね、と。

 

She is like the lady down the road

彼女は、すぐそこの道を行く婦人みたいに

Or just the woman up the street,

あるいはあの通りを歩いてくる女性みたいに

Like any mother you may know.

あなたも見覚えのあるかもしれないごく普通の母親のようだ


To me, she is the one who had it planned

でも私には、彼女はそれを周到に計画してた人だ。

To lead us all to Wonderland,

我々を不思議な世界に導くために

She always wanted us to go

彼女はいつも我々が冒険することを望んでいる


And she said

そして彼女は言う

Don't ever be lonely,

決して独りぼっちだと思わないで

Remember, I'll always care.

私がいつも気にしてみていることを覚えていて


Wherever you may be

あなたがどこにいようとも

Remember I will be there.

私がついているから


And like another lady that we know

そしてまたよく知っている婦人のように

She has a smile so bright and sweet,

彼女はとても明るく甘い微笑みを浮かべる

And hair as white as driven snow

そして髪は吹き寄せられた雪のように白い


Though life is never easy day to day,

人生は決して楽な日々ではないけれども

She has a very special way

彼女は特別なやり方で

To make us smile when we are low.

落ち込んだ時でも我々を微笑ませてくれる

 

 

「彼女」はあなたの人生の挑戦を後押しして、いつでもどこでもついていてくれる。辛くて落ち込んだ時は、明るく甘く微笑んで励ましてくれる。そんな彼女には僕からも  "I will be there" と誓いたい(^▽^)/

 

"I will be there " by Katie Melua

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人生が輝く「サイズ」を探して - Bright Size Life

「最近、パット・メセニー(Pat Metheny)の『Bright Size Life』をよく聞く」という友人Mくん(前回登場の「写真家」Mくんとは別人)の謎めいたSNS投稿を見たのは、1年前の9月だった。

曰く、「『Bright Size Life』というタイトルがなんだか心に引っかかり…メセニーがどういう思いでこのタイトルをデビュー作につけたのかわからないし、うまく日本語にもできない」けれど「なにかいいなと。」「『bright size』がどれぐらいのサイズ感なのか、多分小さいのだろうな。手のひらに乗るぐらいなのかあとか。自分の人生のbright sizeを探しながら日々大切に生きたい」

 

「bright life(明るく輝く人生)」ならなんとなく想像がつく。でも「bright size(輝く大きさ)」ってなんだろうと僕の心にも引っかかり、その時初めて、そのジャズ・ギタリストの曲を聴いた。プログレッシブ・ジャズというジャンルに属する1975年のインストゥルメンタルは、綺麗で透明な感じがした。70年代といえば、日本では「大きいことはいいことだ!」というチョコレートの宣伝が流行った頃だ。ミズーリ州で13歳からギターを独学で学び、18歳にしてボストンの名門バークリー音楽大学の講師になったメセニーは、21歳で「デビュー」という人生の節目に気負うことなく、ただ輝いていたいという純粋な心があったのかな、と思った。サイズは決して大きくある必要はない。輝く自分であり続ける心地良いサイズの人生求めて新しいキャリアをスタートさせようと。

 

後年メセニー本人が、ファンからそのミステリアスなタイトルの意味を問われて、次のように語っている。(Patmetheny.com 2001/5/1付Q&Aより拙訳)

「この間にちょっと考えてみたけど、正直言って、曲の名前を付ける時に何を考えていたか、そのタイトルはどこから来たのか、まったくわからない。たぶんその時頭に浮かんだ言葉に、ジャコ(パストリアス。トリオを組んだメンバーの一人)もいいねって言ってくれて、それで決まった感じかな。長いこと「練習曲第2番(exercise number 2)」と呼んでたんで、どんな名前でもそれよりマシだった。」

 

実情はそんなことなのだろうが、少なくとも26年後(2001年時点)でもステージで弾いたりしているところを見ると、メセニーにとっても愛着のあるお気に入りの曲であり、たぶんタイトルもしっくり来ているのだろう。僕たちが不思議に思ったように、英語ネイティブにとっても謎めいたタイトルだったということが分かっただけでも、悩んだ甲斐はあった。

 

Mくんは高校の同級生というだけで、あまり深い交流はなかった。当時からバンドを組んでギター弾きつつも学業優秀なデキル子だったが、高校時代と同じ長髪で同窓会に現れたので印象に残った。それをきっかけに6〜7年前からSNSでつながって、食べ物、本、旅行などの心に留まった投稿に時々コメントしたりしていた。ワイメア(ハワイの地名)の話題で盛り上がりながら何か違うなと感じていたら、僕はハワイ島のワイメア、彼はカウアイ島のそれを言っていて、可笑しかった。そしてお奨めに従ってカウアイ島のワイメアも行くと約束した。

Mくんの息子さんによれば、「情熱をもって宗教学や文化人類学を学び、世界の死生観にふれてきた」父親が、「人生でたどり着いたすべて」として「自分の人生のbright sizeを探しながら日々大切に生きたい」と思ったということ自体に胸がいっぱいになったという。

息子さんにとっての父親は、ずっと「最大の恐怖であり敵」だった。会話はするが口から出るのは「論」ばかりで、さみしいとか、うれしいとか、「気持ちの言葉」がない。気持ちが分からない怖さがあった。そして彼もまた「気持ちの言葉」を使わなくなり、「誰かを助けられる自分でなければダメだ」という執着が芽生えるようになったのだと。

しかし去年(2020年)1月に2人きりで会った時、彼からその執着について話し、執着が家庭の中で芽生えたと思うことまで伝えることができた。すると父親からも息子との関係や情緒的なことをずっと避けていたことについて「どうすればいいかわからなかった」と言われた。「居場所がなかった」とも。それははじめて父親から聞く「気持ちの言葉」だった。人生の重い栓がポンと抜けた気がしたそうだ。家族に無断で一人でカウアイ島に行った父のことが鮮明に、優しい気持ちとともに思い出されたと。「それからの父と私は、はっきり言って、仲良しだった…父は私に、自分が何を好きなのか、どう好きなのか、たくさん話してくれました。」そしてMくんにいくつもの夢が生まれて、それを恥ずかしそうに小出しに話しては、息子さんを嬉しがらせてた。病気で告げられた余命を越えても元気だったMくんが、医師に今後の見通しを聞いた時に、隣で聞いていた彼は「思わず勇み足に『父には夢があるので』と口出し」してしまった。「そのときの自分が、私は好きです。自分の中に父への愛情があるということを認識した瞬間でした。」

「私が小さな子どもの頃から、きっと父は自由でありたいと願いながら、自分の心をどうすればいいのか、ずっと戸惑っていたから。それを何よりも大切にするようになったとき、人はこんなにも優しさと楽しさと、やわらかい輝きで満たされるんだということを、父がその身をもって教えてくれました。いま、父を心に浮かべると、あたたかい気持ちがどこまでもとめどなく広がります。」

 

悲しいことにMくんは今年の4月に他界した。魂はカウアイ島にあるそうなので、また旅ができるようになったら、約束通り行ってみたいと思った。「ずーっと前からいるような感じのする場所」で、彼が生きた「自由で好きな人生」のbright size を尋ねてみよう。