花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

つい昨日のこと - Only Yesterday

早いもので僕の誕生月の9月も最終日となった。

とうとう還暦となったわけだが、歳をとって良いことの一つは、10年前と20年前とがどれほど離れているのかという時間の感覚がわかることだと思う。「時の距離感」とでもいうのだろうか、その距離感で、僕が生まれた60年前の1961年に、両親が何を見て感じていたのか、想像してみたい。

 

今年は、ニューヨークのワールドトレードセンタービルがテロによって破壊された「9.11アメリカ同時多発テロ事件」から、20年目に当たる。これを契機に米国がアフガニスタンに侵攻するいわゆるアフガン紛争が勃発したが、僕にとって2001年の「9.11」の記憶はいまだに生々しい。1961年の20年前といえば1941年、日米開戦の年だ。当時30歳の父にとって、10歳の頃の記憶は鮮明であっただろう。24歳の母は、4歳時の記憶なので微妙だが、その後の戦争と1945年の敗戦ははっきりと覚えていたことと思う。

日本ではポツダム宣言受諾を国民に伝えるラジオ、いわゆる「玉音放送」が流れた8月15日をもって「終戦」としているが、米国ではその約半月後、東京湾に浮かぶ米国戦艦ミズーリ号甲板上で降伏文書が調印された9月2日を、ポツダム宣言受諾が外交文書上固定された対日戦勝日(VJ Day: Victory over Japan Day)としている。戦時国際法上は口頭でも休戦協定は合意とみなされるので、降伏意思を日本から伝えた日(8月14日)から休戦とも言えるのだが、米国駐在中にVJ Dayのニュースを聞いて、対戦当事国同士でこうも違うものかと思ったものだ。

休戦が本当の意味で終戦となるのは1951年9月のサンフランシスコ平和条約を待たねばならなかった。それは僕が生まれるちょうど10年前のこと。今から10年前といえば東日本大震災の2011年だ。単独講和か全面講和かで国論を二分し、占領軍が在日米軍という形で引き続き駐留するという異常事態は残ったが、兎にも角にも日本が独立国になったことが記憶に新しい1961年に第一子が生まれた。

今振り返る「9.11」や「東日本大震災」と同じ記憶の鮮明さと同時代感覚で、両親が戦争と独立を感じていたことを思うと、それらはあたかも、つい昨日のこと"Only Yesterday"、 のようだ。両親たちの世代が、戦争の記憶を後世に伝えることに重い使命感を感じるのは、それだけ戦争に「近い」距離感を認識していることの表れなのかと思う。

1951年当時インドの首相だったネールは、日本に外国軍が駐留することや沖縄・小笠原諸島が米国占領下に置かれることなどを理由に「日本が他の国と等しく名誉と自由が与えられていない」としてサンフランシスコ講和会議への招集にマレーシアなどとともに応じなかった。それも「つい昨日のこと。」今日もその意味でこの国に名誉と自由は無く、唯一の被爆国という立場にあっても「米国の核の傘の下」にあることを理由に、今年マレーシアなど50カ国以上の批准により発効した核兵器禁止条約に参加できずにいる。

 

還暦の誕生月の最終日に、生まれた時の両親が感じていたであろう戦争との距離感に想いを馳せ、今日的課題とのつながりを再認識した。

ところで今両親は、特に親父は、30年前の還暦をどのように振り返っているのか、聞いてみたくなった。つい昨日のこと、のように良いアドバイスを授けてくれるかも知れない。独り身の僕に「ベターハーフをそろそろ連れてきたら」と言われることは請け合いとしても。