花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

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気がつけば半年でウルトラランナー【変態三部作 第一話】A Trilogy of My Transformation - Episode 1

「そうだ、今年中にマラソンを完走しよう!」

2016年9月、55回目の誕生月2日目の夜、突然そんな思いに駆られた。マラソンへの憧れはずいぶん前から何となくあって、マラソン特集してるスポーツ雑誌を見つけては衝動買いしたりしていた。5年に1回くらいランニングシューズは買い替えて、時々走ってみては、挫折を繰り返していた。

やっと朝のジョギングを始めたのは2015年春頃。最初はとにかく心臓麻痺しないように慎重なペースで、30分で帰ってシャワーして朝7時前に家族の朝食準備するような感じだった。徐々に慣れてくると週末の気分転換に、10kmくらいは走っただろうか。ランニング・ウォッチなど持っていなかったため、正確な記録はない。とにかく10kmなら、早い遅いはともかく走れるという状態になっての決断だった。

そうと決めたら善は急げ。ネットで調べて、まず10月1日に20km「多摩川チャレンジマラソン」にエントリーした。11月は30kmを探したが近くに適当なレースがない。3日に武庫川で30km「ユリカモメマラソン」があった。何とか年休取っていけるだろう、とポチり。そして本番のマラソンは両親の故郷である栃木県佐野市「さのマラソン」に決める。12月11日だ。それがアップダウンと後半の向かい風がきつい大会と知ったのは、本番の直前のこと。とにかく12月開催の大会の中でコースに土地勘があるということで選んだ。

さあ、スケジュールは決まった。さてどうする?

本屋に行くと色々本が並んでいる。ランニング・サークルみたいなものもある。しかし仕事をしながら、3ヶ月でフルマラソン完走することが目標なので、あれこれ手を出している余裕はない。この時点で10kmを1時間くらいで走れる力を、12月の本番までに42.195km走れるように仕上げることだけ集中する。とりあえずの目標は10月1日の20kmだ。

ここで思わぬサポーターが出現する。中学時代の友人Mだ。彼が自宅近くの多摩川の写真をSNSにアップしていたので、何気なく「この近くを来月走るよ。」とコメントしたら、応援に来るという。僕自身は運動部経験もなく、人から応援してもらう事を想像も期待もしていなかったので、正直いえば最初は半信半疑でレースの日時など詳細を伝えた。

そしてレース当日、彼は来た。重い写真機材を携えて。10月とはいえ晴れたら暑い。そんな気候の下、最後まで、ゴールするまで、応援してくれた。そしてスタート前からの僕の姿を克明に記録してくれた。僕としても友人に見られているとあってはみっともない姿は見せられない。10km以上先は未踏の領域だったし、実際足が重く感じることもあったが、「顔で笑って、心で半泣きして」ゴール。レースデビュー戦のビギナーがランナーズ・ウォッチを持っているはずもなく、記録がわかったのは約一月後に完走証が届いた時、1時間49分30秒だった。2時間くらいで走るという彼への約束は果たせた。実際の目標10km55分ペース(1時間50分)もクリアした。初めてのレースを無事イメージ通りに終えて、安堵したと同時に、応援のありがたさを実感した。

ところで目標はマラソン完走としか考えていなかったが、タイムについてはぼんやりと4時間で走るイメージがあった。もちろん衝動的に走り始めたビギナーは当然にマラソン知識が乏しいので、「サブ4(フルマラソン4時間切り)」という言葉は知らなかった。とにかく40kmを3時間40分で走れれば、最後の2.195kmを走るのに20分ある。4時間は余裕で走れるだろう、程度に考えて10kmを55分ペースを目安にレースに臨んだ。次は11月の30km。目標は3時間45分だ。

30kmレースは武庫川。妻がかつて知り合いとともに泊まった宝塚に宿を取って、当日を迎えた。レースコースは河川敷の土の道。背の高い松並木が両岸に続いていて、気持ちが良い。好天に恵まれて片道5kmの周回コースをスタートした。相変わらず腕時計無しで走っていたが、スタート地点に電光表示時計があって10kmごとの通過時間はチェックできた。最初の10kmは50分とアドレナリンのせいかやや速めだった。20kmは少しペースダウンを意識して53分。よしよし、だ。しかし最後の10kmに入ったら足が重くなってきた。それでも何とか最後まで走ってフィニッシュ。2時間39分07秒。マラソンでは先輩の大学時代の友人Iに伝えたら、「サブ4いけるね」と返事が来た。ここで初めて聞いた業界用語「サブ4」が、本番の目標になった。

いよいよ本番「さのマラソン。」30km以上どうなるかわからない中、少しでも手掛かりを求めて、銀座アシックス・ランニング・ラボで走行能力測定をした。結果は「足のアーチが低め(いわゆる扁平足)で足関節可動域が小さいが、基礎代謝量・体脂肪率はランナーとして望ましい数値。ランニングフォームは改善に急を要するほどではないが、肘の引きが甘い。フルマラソン予測タイム4時間12分、ハーフ1時間49分」だった。ここでトレーニング指針として「キロ5分切りペースで8−12km走る」ことを教わったのは目から鱗だった。ビギナーなので、「心臓麻痺起こさないよう」な練習しかしていなかった。結果として距離はそこそこだが、いわゆるスピード練習が足りてなかった。残り1ヶ月足らずではあったが、週一回のスピード走と本番2週間前の30km走を入れることができた。本番1週間前に帰省兼ねて、コースの下見(試走はスタート3kmとラスト5km)して、当日を迎えた。

現地前泊し、スタート3時間前に起きて、1時間前に佐野駅から会場へのシャトルバスに乗る。30分前にバナナ1本食べて、ゆっくりスタート。赤い風船つけた4時間ペーサーを近くに見つけて、彼らを視界から外さないように刻んでいった。佐野は両親の地元。スタートする運動公園がある小見は母の実家近く。秋山川を越えて折り返しポイント葛生は父の実家に近い。56年前に母が嫁入りでたどった道を行き来する沿道に、父の声がけで集まった近所の叔父叔母が待っていた。彼らを前に格好いい姿を見せたい!見栄っぱり根性ではあるが、これも応援の力、大いに助けになった。23kmを過ぎて最初の疲れを感じる頃に父の姿が見えて、復活した。コース最大の坂にさしかかる手前(28km地点)に叔父叔母がいて、元気に手を振った。30km過ぎても足は大丈夫。35km、まだ動いてる。遠く前を見ながら少しウルウルきた。ついにここまで来たかと。

38km、突然足にガクンときて動きが遅くなった。エイドでスポーツドリンクもらって一服。あと少しだ。がんばれ!しかし足は動かない。サブ4ダメでも完走ならいいか、と弱気になったところで「赤い風船」が僕を抜いていった。

「君たち!そこにいたか〜。」

彼らを抜き返して、元気が出た。最後まで諦めない。笑顔でゴールだ。運動公園に帰って、陸上競技場に入る。フィニッシュ!3時間57分06秒だった。

 

55歳の挑戦は終わった…かに見えた。ところが友人Iと祝杯を上げていた時に、彼に誘われるままに1月の勝田マラソン(フル)と2月の青梅マラソン(30km)にエントリーした。しかし物事良いことばかりは続かない。勝田は途中足も攣って、佐野より遅いタイムだった。青梅は膝痛も出て、3時間18分と武庫川より40分近く遅いフィニッシュとなった。振り返って考えれば、佐野のサブ4はビギナーズ・ラックだったのかもしれない。足裏にマメを作ったくらいのトラブルで済んだ。後になってビギナーの多くが通るトラブルであるランナー膝(腸脛靱帯炎)の洗礼を受けた。それでも調子に乗って3月は、「荒川リバーサイドジャーニーラン136km」を走った。

136km!初日80km、2日目56kmのステージレースだが、フルマラソン(42.195km)をやっと走れたばかりのランナーがどうやって走る?不安が無かったといえば嘘になるが、当時はむしろ、この先どこまで走れるのか試してみたい興味で一杯だった。後から聞くと友人Iもラン歴7−8年で100km超えのレースにそろそろ挑戦してみたかったとのことだった。訳もわからず興味だけで本番を迎えるのだが、12月のフルマラソン完走以来、兎にも角にも毎月レースをこなしたことで走力維持向上になっていた。不十分ながらも準備はしていたと言える。

レース当日、何も考えずにスタートすると、普段のジョグペース(6分/km)で走っていた。これがウルトラマラソン走るには速すぎたか、青梅で感じた膝痛がぶり返して、20km地点で一旦休憩。最初のエイドポイントである戸田彩湖(42km)でリタイアも考えた。しかし偶然目の前を走っていたランナーが、リタイアを申し出て「えー、いきなり、マジですか?」みたいなスタッフとのやりとりが続く中、リタイア言い出すきっかけを失って走り続けた。友人I含むグループで走っていると痛みも何故か和らいで、何とか初日の80kmを走り終えた。もっともゴールから宿までは歩くのがやっとの状態だったが。

2日目、一晩寝ると膝痛も治ったかに感じ、元気にスタートした。しかしそれも束の間、10kmも行かないうちに歩き出す。どうにも痛くて20km地点のエイドでリタイア。ラン歴初めての途中棄権(DNF)となったが、2日間のステージレースなので、1日目の80kmステージは完走。フルマラソンの距離を越える長距離走ウルトラマラソンというが、僕は10月にレースに参加し始めて、半年でウルトラランナーになったことになる。

振り返れば、フルマラソン完走を決意した2016年9月には、ただただジョギングが習慣化した証を求めていただけであった。完走できる確証は無かったが、経験も知識もない素人は怖いもの知らずで、どうしたら完走できるかだけに集中して、達成した。しかしそれが半年後にウルトラランナーになるとは全くの想像外だ。単なる日常の変化というより、青虫が蝶になるような、劇的な変革(トランスフォーメーション、Transformation)、つまり変態だ。僕の変態がここから始まった。