花と、空と、リモンチェッロ/ Flower, Sky, and Limoncello

平和で美しく、ご機嫌な地球のために。For Peace, Beauty, and Joy on the Earth.

神は私たちに成功を求めてはいない… God doesn't require us to succeed...

東京2020パラリンピックが閉幕し、コロナ禍で開催が危ぶまれたオリ・パラ東京大会が全ての日程を終えた。緊急事態宣言が発令された東京でやるのか、と政治問題にもなったが、その是非はさておき、個人的にはこの大会に自らのピークを合わせてベストパフォーマンスを出そうとしてきた参加アスリートの挑戦に心から拍手を送りたい。

 

前回のリオ・デジャネイロ大会(2016年8月)時点で、僕はまだマラソンを始めていない。その意味でアスリート目線で見る初めての大会が東京2020であった。大会に向けての準備、本番の作戦、挑戦。やり切れたか、悔いはないか。そんなことを気にしながら見ていた。

 

自分の能力を信じて、目標を掲げて計画を立て、実行する。途中経過に不安を感じたり、自信過剰になったりしながら、自分の心と体に向き合う。最後は「これが自分だ!」と言い切れる、迷いも恐れもない状態で本番を迎えられたらベストだと思う。相手があることなので、結果が希望通りになる保証は無い。与えられた条件下で力を尽くしての結果は、ただ受け入れるしかない。失敗する可能性も含め結果を淡々粛々と受け入れる覚悟までが、闘いの準備だ。体操男子団体。最後の鉄棒で最高難度の技に挑戦し、成功させた橋本大輝選手の勇気と実行に感動した。僅かな差で優勝は逃したが、勝負した結果であり、やり切った感が溢れていたように思う。

 

近代オリンピックの父と言われるクーベルタン男爵は、有名な「参加することに意義がある」という言葉に続けてこういった。「人生で重要なことは、勝利することではなく闘うことである。その本質は打ち克つことではなく、よく闘ったことにある。」

勝利ではなく闘うこと…と言われると、勝利至上主義からすれば「勝利こそが全て。無駄な闘いはしない。」と反発も出そうである。しかし勝利は環境依存で、他力本願。自分より相手が弱ければ、あるいは自分のプレー中に良い風が吹けば、転がり込むような側面もある。そこで他人の不幸を願ったり、さらには、残念なことだが、相手に怪我をさせたりするような事件も過去にはあった。勝利ではなく「よく闘う」ことに集中するということは、自分のプレーをよりよくすることだ。自分のプレーを高める行為の中で、自分の強み弱み、何を喜びとし何を恐れるか、がより明確になってくる。自分が何者なのかを問う旅にもなるのだ。

 

ここで思い出すマザーテレサの言葉がある。

God doesn't require us to succeed, he only requires that you try.” — Mother Teresa

神は私たちに成功することを求めてはいない。挑戦することだけをひたすら求めている。

 

成果主義の世の中、オリンピック報道でも相変わらずメダル獲得競争に焦点が行きがちではあった。また一方でオリンピックの意義が問われる大会でもあった。あらためてその原点を考えてみると、闘う人間の魂が問われているのだと気付かされた。よく闘うこと、挑戦し続けること、その中で新しい自分を見つけることが、スポーツでも人生でも重要なのだと。

 

オリンピック憲章には、オリンピズムが肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学であることが明言されている。さらにスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものであること。スポーツを平和な社会の推進に役立てること。スポーツをすることは人権の一つであり、いかなる差別も受けることなく、すべての個人がスポーツをする機会を与えられること。それには友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められることなどが記されている。

そうした理想と伝統のあるオリンピックをコロナ禍にあっても続けたことの意義は、歴史的に大きいものであったと思う。それを政治利用しようとした人たちや、IOCの体質、行き過ぎた商業主義などは、大いに批判するべきであったとしても。